「風魔の館」が岩槻にあった⑨ 「黄瀬川の風魔」

関連地名地図(『北条五代記』に基づき作成)

 天正10年(1582)9月25日、風間出羽守が北条氏政からの書状で、味方と首尾を合わせて出撃するよう依頼された12日後に、甲州若神子(山梨県北杜市)と豆州三島近くの大場(静岡県三島市大場)で、同時に徳川軍と北条軍の合戦があり、三島では北条のかまり(伏兵)が沼津・三枚橋城の城将を討取りました(『家忠日記』『石川正西聞見集』『寛永諸家系図伝』小笠原安次伝など)。

 この三島の合戦には、三浦浄心『北条五代記』の風魔の伝説にも通じる所があります。

 同書巻9「関東の乱波智略の事」によると、風魔(かざま)は、天正9年(1581)秋に、北条氏直と武田勝頼・信勝父子が駿・豆境の黄瀬川を挟んで対陣したときに、四頭(盗)と二百人の足軽(徒党)を率いて、敵陣に夜討ちをした「乱波の大将」です。

 武田軍の兵士は、秋の3ヶ月間、長い夜が続くので「うらめしい風魔のしのびだ。ああ、つらい。乱波の夜討ちだ」と嘆息し、こうしたことが天正18年(1590)まで続いたといいます。

  同書にいう天正9年秋の武田軍と北条軍の対陣は裏付けに乏しく、『北条五代記』が翻刻・現代語訳される際には、天正7・8年に修正されています。しかし、武田軍の大将とされている武田信勝は、太田牛一『信長記』や『甲陽軍鑑』の天正10年の記事に、数え16歳として登場する人物で、年号を「前ずらし」すると、当時13〜14歳だったことになります。

 天正10年の「風間」の出陣を裏付ける史料の多いことや、『北条五代記』の、秋の3ヶ月間の対陣、天正18年まで続いた、といった叙述からすると、むしろ年号を「後ずらし」して、「三浦浄心は、天正10年の徳川氏との対陣で活躍した人物のことを秘かに伝えようとしていた」と考えた方が自然です。

 そして、岩付衆が三島へ遠征したことを裏付ける史料は、他にも存在します。<つづく>【岩槻風魔忍び研究会・吉田】

 

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