村上米子さんたちは、弥勒密寺に紅梅の塔を建てました。それには次のような刻印が記されています。
『戦後五十年を過ぎたとはいえ筆舌につくしがたき悲惨な出来事は今も脳裏に焼き付き消そうにも消すことが出来ません。
思い起こせば旧満州で終戦を知らされぬ中、各開拓団はじめ国境近くの居留民は頼みの日本軍の庇護もなく突然のソ連軍参戦により混乱状態となり、略奪・焼き討ち・銃殺・強姦等生き地獄を味わい、
あるものは集団自決をとげ、老人・母子・子供達は山野をさまよい、草木を食いての長い長い逃避行、その間隊列についていけぬ者はどうするべきもなく、心ならずも血の涙で別れ、多くの犠牲者を出しました。
その後各地に設けられた収容所でも疫病や飢えや酷寒と次々と倒れ、戦争が終わったにもかかわらずこの惨状は引きあげまで続きました。
当時満州にあった日本人の一六六万人のうち死亡者は実に二十万人以上と言われ、そのほとんどは、幼児とその若い母親そして老人でした。
願いがかなって帰国の縁あって岩槻市に居を求めた私たち残留孤児・残留婦人たちは、遠い彼の地中国に果てた多くの母子の御霊そして我が子変わらぬ優しさで育ててくれた養父母の供養も忘れることなく思いを馳せるのみで、お参りする墓とてございません。
この度彌勒密寺さまの深いご理解とご協力を頂きここに第二次世界大戦によるすべての犠牲者の方々に追善回向し、また亡くなられた養父母の慰霊を祀り、感謝と供養のまことを捧げ、再び戦争という過ちを繰り返さないことをここに誓い、永遠の平和を記願記念し「紅梅の塔」の建立を決意いたしました。』平成15年3月15日
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