ともちゃん地蔵ってなぁに ⑧ 逃避行(その2)

村上米子さんらが建立した『紅梅の塔』の建立趣意には、『逃避行の生き地獄』が記されている。
どんなことがあったのか実例④

(前号のつづき) もぬけの殻となった開拓団村に着いて、そこで暮らすことになったの。
そこで、小さい子たちは枯葉のようにべたべたと死んでしまうのよね。
毎日穴を掘ってさ、泣く人もいない、聞く人もいない。
ただただそれをみて埋めるだけね。そこにね。
ロシア(ソ連兵)の兵隊が入ってくるの、怖いんだよ。
かわいい女性をみたらいたずらをするんだ。
それが怖くてあっち、こっちへ隠れたり、生きてる心地もしないんだよ。
そのうちロシア兵も居なくなったけど、食べ物がないのよ。寒くなってどうしようもないのね。
こんど、中国の人が次々にお嫁さんをもらいにくるの。
1軒1軒まわって「こっちの娘がきれいだ」、「どこの娘はまだ若い」とか。
中国人だってやっぱり生娘をもらいたいんだよ。
私もその一人だったけどね。
行きたくないのよね。
母たちを助けるように、私は、ともろこし(包米馇子)20キロくらいと取り換えられて行ったの。
そのころ中国では貧しい人はお嫁さんもらえないのよ。
なんでもあると嘘をつかれて。
行ったら何もなく、食べるものなくてお腹すいて死ぬ寸前でした。
履くものもなくて逃げて帰るところもない。
女性だから、男のところ行けば、こども生まれるよね。
食べ物が無い、おっぱいもでない、着るものもない。
最初の4人くらいみんな亡くなったの。
お医者さんも薬もない。熱でたらすぐ死んでしまうの。
今の一番上の子が、きっと5番目だよ。子ども生まれなかったら私死んだ方が楽だったよ。
生きてる人は、生きていかないとならないよね。
死ぬというのは簡単だけど、いざという時は死ぬということも大変なことだよ。

2025年5月17日 佐藤千代さん 証言より

追記:一ヶ月の逃避行の末、逃げた後の開拓団の跡地「方正」にたどりつく。1945年の暮れ、極寒と飢えで、親を助けるために一つ歳年下の妹を連れて中国人の妻となった。17歳だった
【岩槻ホタルの会・新井 治】

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