収容所に収監
日本の敗戦とともに満蒙開拓団の人びとは、関東軍の保護を失い、女性・子ども・老人だけで陸路や鉄路での過酷な逃避行を余儀なくされました。
逃避の途中、都市部(注1)にたどり着いた人びとは、ソ連軍によって「集められ」、管理下に置かれました。「捕虜」というより、移動を止められ、「守る者がいなくなった結果、支配下に置かれた」という状態でした。
ここに集まれ」「勝手に動くな」という命令のもと、大勢が集められ、収容所に収監されたのです。
収容所には、旧日本軍の施設・倉庫・学校・兵舎・工場跡などが転用され、鉄条網が張られ、見張り付きの収容所生活が始まりました。
出入りは禁止され、食料は配給制で極端に不足し、医療はほとんどない生活でした。
また収容所は、あらゆるものが持ち去られ、屋根と柱があるだけの吹きさらしの、みすぼらしいものでした。
冬は氷点下20度にもなる環境のもと、火気の使用も難しく、多くの人びとが次々と亡くなっていくという状況でした。
こうした収容は、数ヶ月から1年以上に及びました。
即時帰還が行われなかったのは、日本政府が現地定着化政策(注2)をとったからです。
特に満蒙開拓団は「戦争の責任を負わされる側」と見なされ、保護対象になりませんでした。
満蒙開拓団員にとっては、戦争が終わってから苦難がはじまったのです。(注3)
注1:ハルビン周辺・チチハル・牡丹江・佳木斯・長春(旧新京)・四平など
注2:日本人開拓民を直ちに日本へ帰還させず、満洲(中国東北部)にとどめ、現地社会に組み込もうとした政策。「民間人保護」は優先順位が低かったのです。
注3:日本軍や都市部の企業関係者は、ソ連参戦の情報をいち早く入手し避難し帰国できました。一方、農村部の満蒙開拓団員は、終戦後に敗戦を知ったので、避難が遅れ多くの深刻な困難に直面し、早期に帰国できたのはごく一部の人だけでした。
【いわつきともちゃんの会・新井治】
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