日本人一人が一日に排泄するウンチの量はおよそ200グラムとされています。日本の人口はおよそ1億2600万人なので、単純計算で毎日2万5200トンも排泄していることになります。身近に普及している下水道のおかげで、私たちは日常それを目にすることはありません。では、日本では今までどのように処理されてきたのでしょうか?奈良時代から江戸時代にかけて、それは厠から回収され、田畑の肥料としてリサイクルされてきました。キリスト教の布教に日本を訪れた宣教師たちも、西洋にはないこのリサイクルシステムを称賛し、著作物に遺しています。江戸時代、それは「品質」によって、値段が細かく決められていました。大名屋敷のようなところから回収されたものは、「栄養豊富な高級品」として一番の高値。江戸の町民の家から回収されたものも、当時の江戸は食に恵まれていたため上等品として扱われました。一方、牢獄から回収されたものは、栄養価が低く肥料として再利用できないとされ、川や海に廃棄されていたそうです。明治時代になると、排泄物によって汚染された食物や、手洗いが普及していなかったことで、たびたびコレラが流行。明治19年には死者が10万人を超え、衛生環境の整備が急務となりました。大正元年、西洋の衛生的な陶器のトイレを体験した大倉和親は、「水洗トイレを日本にも広めなければならない」と奮闘。日本陶器(現ノリタケ)社内に研究所を設立し、大正3年に国産初の腰掛け式の水洗トイレを完成させます。大倉和親はのちに東洋製陶(現TOTO)や、伊奈製陶(現LIXIL)の設立にも深くかかわっているので、日本の水洗トイレの普及に大きな影響を与えたと言えるでしょう。大正7年になると、化学肥料の普及により、今までは業者に買い取ってもらっていたのが、お金を払っての回収に逆転します。処理に困った当時の東京市長の後藤新平は、下水道の建設を急ぎます。ところが、都内に急造した3か所の下水処理場も、今度は関東大震災で大打撃を受けてしまいます。昭和に入ると東京は人口がさらに急増。下水道の建設が追い付かず、海洋投棄や専用貨物列車による郊外への輸送でしのいでいたそうです。書籍『うんちの行方』は「災害時に切実なトイレ対策」についてももちろん解説されています。普段は目に触れることのない文字通り「縁の下の力持ち」の下水道が機能しなくなると、私たちの暮らしは一気に江戸時代に戻ってしまいます。その日のためにどう備えればいいのか、本書とともに考えてみましょう。さて、タワマン全戸で一斉にトイレを流したら、どうなるでしょうか?【さいたま市防災アドバイザー・加倉井誠】
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