寄稿 「風魔の館」が岩槻にあった⑤ 風間孫右衛門、天目山に現わる

 天正10年(1582)9月13日、徳川家康と北条氏直の軍勢が、甲州若神子(山梨県北杜市)で対陣している最中に、別方面の北条氏政と出撃を打ち合せていた風間出羽守。彼は、黒谷の風間出羽守と同一人物なのでしょうか。またこのとき、何処に居たのでしょうか。 徳川家康による幕府創業の歴史を記した「徳川氏創業史」と呼ばれる軍記群には、この対陣のことが詳しく書かれており、「風間」の名が見える史料も筆者が確認した限りで少なくとも9点あります。その中で、成立時期が寛文7年(1667)と比較的早く、他の軍記の出典になったとみられるのが、著者不明の『治世元記』です。
 まず、天正10年8月上旬の北条軍の布陣に関して、 然して氏直、大軍を卒して甲州に出張し、乙骨(長野県諏訪郡富士見町)に屯す。北条左衛門佐(氏忠)、黒駒(笛吹市)。北左衛門太夫(氏勝)、笹子峠(大月市)。恵林寺筋、苅坂(道、山梨市)は黒沢上野(守・介)。天目山(甲斐市)、風間孫右衛門等陣す。
 (『治世元記』巻5(9)国立公文書館蔵本(電子化資料)の原文を翻刻して書き下し、補注しました)とあります。北条氏忠はこの頃の足柄城(南足柄市)主、北条氏勝は玉縄城鎌倉市)主、黒沢上野(繁信)は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)の城将として知られ(詳細は『後北条氏家臣団人名辞典』などを参照)、それぞれ相模国西部、同国東部〜武蔵国南部、同国西部の軍勢を率いて甲州に入り、徳川軍を取り囲むように布陣していた、という、分かりやすい説明になっているかと思います。 風間孫右衛門が布陣していた天目山は、甲斐市大和町にある寺院・棲雲寺の山号で、大菩薩峠

から甲府盆地の勝沼方面へ下る途中にあります。風間は、なお出自は不明ですが、武蔵国東部の軍勢を率いて、東京の奥多摩方面から峠を越えてきたと推測できます。(つづく)
【岩槻風魔忍び研究会・吉田】

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