天正十年(1582)九月十三日、徳川氏と後北条氏が甲州若神子(山梨県北杜市)で対陣している最中に、北条氏政と出撃を打合せていた風間出羽守。寛文七年(1667)成立の徳川氏の軍記『治世元記』には、同年八月上旬、北条軍を率いて甲州天目山(甲州市大和町)に布陣していた風間孫右衛門の名が見えました。
更に、同書によると、同月九日、等呂木(甲州市勝沼町等々力)の徳川の陣を北条の軍士が夜襲して、番兵三十余人を討取りました。徳川軍は大野砦(山梨市大野)へ退却し、北条軍
も退却しましたが、そこへ武田家の浪人が駆け付け、勝沼の町で合戦となり、北条の軍
兵多数を討取りました。中でも、御手洗(みたらい)五郎兵衛(直重)は、三沢勘四郎という武将を討取り、その首に采牌を副えて徳川家康に献上し、恩賞に脇差を下賜されました。(『治世元記』巻5(9)より抜粋して要約)
御手洗は、この戦功により徳川氏の家臣に取り立てられたため、寛永二十年(1643)に完成した幕臣の家譜集『寛永諸家系図伝』(以下『寛永伝』)にもその伝がみえます。
大権現(家康)甲州 御入国(若神子対陣) のとき、武州の風間といふもの蜂起して、軍勢二百人を率(ひきい)甲州棚小屋(甲州市大和町)に競(きそい)きたるとき、風間を討 捕、則(すなわち)其首を提(ひっさげ)大大権現にまみえたてまつる。(以下略、国立公文書館蔵本156-0016第132冊コマ13-14)
『寛永伝』によると、御手洗が討捕ったのは、三沢勘四郎ではなく、二百人の軍勢を率いてきた「武州の風間」でした。風間は『治世元記』にいう風間孫右衛門でしょうし、二百人という軍勢の規模は、『北条五代記』の風魔の伝説とも符合します。同書から、風魔=風間孫右衛門は、武州の人であって、相模国の忍者ではなかった、と考えられそうです。
さてしかし、「武州の風間」は、本当に討捕られてしまったのでしょうか。(つづく)【岩槻風魔忍び研究会・吉田】
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