寄稿 「風魔の館」が岩槻にあった(8) 「北条のかまり、三枚橋の城将を討取る」

 天正10年(1582)9月13日、若神子対陣の最中に、北条氏政からの書状で、味方と首尾を合わせて出撃するよう依頼されていた、風間出羽守。同日以降には、どのような出来事があったのでしょうか。

 天保13年(1842)完成の、徳川氏創業史の抜録集『朝野旧聞裒藁』を見ていくと、同月25日に、若神子と伊豆の三島(静岡県三島市)で、同時に両軍の合戦があったことに気付きます。

 まず、このとき若神子に在陣した徳川氏の一門衆・深溝松平家忠の『家忠日記』には「(九月大)廿五日庚辰 雨降/惣働候 敵味方手負候」とあり、25日に若神子で合戦があったと分かります。(『続史料大成19』1967、139頁)

 一方、万治3年(1660)完成の、川越藩の藩家老・石川正西の覚書『石川正西聞見集』には、秋のある日、沼津・三枚橋城の家中衆が、城主・松井松平宗輝様の指示により、小田原領の三島近くの大場(だいば)近辺で、家老衆の都筑介大夫と小笠原丹波(安次)を物頭に苅田をしていた所、宮の内の木蔭に小田原のかまり(伏兵)が隠れていて、宮の前で助大夫、大清水の辺りで丹波が討死し、その他多くの侍が討死した。
三枚橋城から宗輝様が三島へ出陣したが、小田原衆は既に山中城まで退却していた。(埼玉県立図書館、1968、24-25頁。抄訳した)

 との記事があります。月日を欠きますが、小笠原安次の命日は『寛永伝』によると9月25日(続群書類従完成会版 第4、215頁)、一門衆や家臣の命日も『朝野旧聞』所掲の『貞享書上』写しによると同日で、三島の合戦も9月25日の出来事と判明します。

 書状での氏政の指示内容と時期の符合から、筆者はこの「かまり」は風間出羽守率いる軍勢だったのではないか、と考えています。
そしてこの三島の合戦には、『北条五代記』の風魔の伝説にも通じる所があります。<つづく>
【岩槻風魔忍び研究会・吉田】

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