今回紹介する「遷喬館扁額」は、絹地に「遷喬館」と書かれ、縦三六㎝、横八六㎝の額装になっているものです。左側の下には「己未 藤久慎書」と落款がみられます。干支などから寛政一一年(一七九九)遷喬館が設立された際、加納久慎(ひさちか)が自ら筆を執ったものであることがわかります。
加納久慎は、加納家の養子となった大岡忠光の次男、加納久周の子にあたります。久周は幼少のとき、江戸の大岡家藩邸で、児玉南柯を素読の師として、勉学に励みました。加納家に入ってからも南柯の学徳を慕い、享和四年(一八〇四)に自らが描いた菅神画像を文化二年(一八〇五)三月一六日に遷喬館へ送り、また伏見奉行在任中には、南柯を伏見に招くなど主従の関係を越え、永く交流がもたれました。また久慎は父と共に遷喬館や児玉南柯を援助し、天明八年(一七八八)、児玉南柯が部下のおこした事件で職を辞した際、南柯を弁護するための書簡を寄せています。
遷喬館を岩槻藩の藩校としたとされる大岡忠正も、加納久周の子であったことを考えると、加納久周親子の力が児玉南柯や遷喬館に対して、大きなものであったことがわかります。
この「遷喬館扁額」は、児玉南柯自画像、菅神図(加納久周画)、勤学所の額、短冊などと共に、昭和五三年三月二九日に県指定文化財である「児玉南柯日記及び関係書籍」、また岩槻藩遷喬館を補足する内容をもつ資料群として、岩槻市指定文化財(当時)になりました。
さいたま市と合併した後は、「さいたま市指定文化財」として引き続き保存が図られ、この「遷喬館扁額」は、岩槻郷土資料館で常時展示しています。
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