◎医王寺跡の百番供養塔 医王寺は柴又帝釈天近くの江戸川土手から矢切の渡しが見える辺りに、以前建っていました。お寺の前を通る慈恩寺道添いに現存する百番供養塔が二基と青面金剛庚申塔一基が置かれていました。現在この場所は柴又公園(柴又六丁目二二)となっています。公園にはベンチハウスが設置され、サイクリングや柴又に観光に訪れる人の憩いの場所となっています。この公園の地下部分は映画「男はつらいよ」の「寅さん記念館」となっています。
百番供養塔が建てられた天明三年は(一七八三年)七月八日に浅間山が噴火し、江戸川にも多数の遺体が流れついた年でもありました。起点の小岩市川の渡し(慈恩寺道標)からここまで三十丁(約三千二百メートル)と記されています。台座には、いわつき じおんじ 八里(三二キロメートル)と線彫りされ、小岩からの慈恩寺道の全長が示されています。もう一基は墓碑を兼ねた百番供養塔で、ほぼ同一の内容の記載がありました。 以前此処にあった医王寺は大正四年(一九一五年)の江戸川の改修工事で新柴又駅に近い北総鉄道に沿った柴又五丁目一三に移築されました。お寺の山門正面奥に、以前の道沿いに置かれていた青面金剛像が移設されていました。薬王山瑠璃光院(医王寺)は、寺史によると室町時代の応永一四年(一四〇七年)七月七日、時の将軍足利義光公が、奇病「赤目病」が下総の国一円に発生し、住民が全滅の危機にさらされているのを聞きおよび、後小松天皇に悪病退散の祈祷寺の建立を上奏し、京都仁和寺の僧、観見和尚が薬師瑠璃光如来を奉持して、下総の国柴又村に寺を建てました。国府台合戦では罹災し再興後、医王寺と改名されています。【榎本淳三郎】
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