◎光増寺 舟形地蔵道標江戸川べりの葛西神社の大鳥居前から北方向へ二百メートル歩いた先に光増寺が建っています。お寺の前を足立区千住から松戸に抜ける旧水戸街道が通っていました。ここから江戸川の土手沿いの道を一、三〇〇メートル程行くと、旧金町・松戸の渡し(関所)になります。江戸時代このお寺は水戸徳川家の立ち寄り場所となっていたようです。お寺の門扉には、徳川家の葵の御紋が付けられていました。境内には、六地藏の隣に岩槻慈恩寺道と記載がある舟形地蔵道標や地藏菩薩道標、奥州三山供養塔、馬頭観音石造などの慈恩寺道ゆかりの地物が置かれています。
舟形地蔵・道標(案内板より) 所在地 東金町六丁目二〇番一七号 区登録有形文化財 平成三年三月二五日 元禄七年(一六九四年)七月に建てられたものです、中央に地蔵の浮彫、左側に(そうかまで二里半)、右には(ミキいわつきしおんしミち)、とあります。以前はここより三十m南の街道ぞいにありました。岩槻慈恩寺は、坂東三十三観音霊場の第十二番札所として知られ、江戸川ぞいの人々の信仰をあめていました。この道は岩槻慈恩寺道と呼び、船運が発達するまでは行徳の塩を運ぶ陸路として利用されました。その後慈恩寺へお参りにいく人々の道として賑わいました。「金町村 同行弐百三十五人」と彫られていることから、多くの信仰を集めていた様子がうかがえます。
葛飾区教育委員会 光増寺鎌倉時代の貞応元年(一二二二年)この地に法海の草庵がありました。元仁元年(一二二四年)五月、茨城県の笠間から四つ木の葛西三郎清重の館に布教に行く途中の親鸞聖人がたまたまここに立ち寄りました。法海は高僧親鸞と知って弟子となり草庵を光増寺としました。なお清重も、親鸞と逢った後に自らも僧侶となり館を西光寺としています。戦国時代に光増寺は国府台合戦により堂宇を消失、天正一五年(一五八七年)七月、江戸増上寺の僧、円蓮社常誉が浄土宗として中興したとされています。【榎本淳三郎】
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