◎北越谷五丁目・越谷宿と行徳屋しらこばと橋を背にして元荒川沿いを歩いて行くと越谷市文化会館があります。以前その場所は瓦曾根溜井の一部でした。会館近くの慈恩寺道を結ぶ旧道に¬月山羽黒山湯殿山 百番奉供養塔・・二世安楽也」と記された供養塔が文化一四年(一八一六年)に建てられていました。越谷市役所横の久伊豆通りで御殿町を過ぎて、元荒川の宮前橋を渡った先に越谷の久伊豆神社があります。隣接する天獄寺門前の猿田彦大神の石塔には南 越谷 北 岩槻・のじま 東 春日部などの地名が記されています。また奉供養六十六部靈地結縁塔には江戸、庄内(山形)の地名もありました。多くの旅人が此処に立ち寄り各地域へ向っています。宮前橋の二つ先にある大沢橋から広がる大沢地区は、江戸時代半ばまでは下総の国で、地区内には一宮の香取神社が建っています。大沢橋から桜の古木が続く桜堤通りと元荒川緑道を歩いて行くと、北越谷五丁目の公園近くの土手の中腹に三基の庚申塔が建てられています。
その中の一基は前面 青面金剛左面 左 志おんじ道 乃じま
と表記された文字塔でした。分かれ道となるこの地点から、元荒川の土堤方向が慈恩寺道と教えてくれます。もう一方の道は、日本橋から続く旧日光街道(奥州街道)で千住、草加宿と進み、越谷宿と合宿の大沢宿を通り抜けた出口付近でこの分かれ道に差し掛かり、春日部方面に行く道です。江戸時代の越谷宿は商家や古民家建ち並ぶ通りで、現在も街道沿いに明治時代頃からの建物が多く維持保存されています。江戸時代に味噌醸造・販売を創業していた「糀屋」は本のあるカフェとしてオープンし、秤を売っていた秤屋もカフェを含む複合施設となっています。現在に合わせて内容を変えて宿場は賑わっています。越谷宿には行徳屋の屋号を持つ店が日光街道沿いに一軒、元荒川沿いにもう一軒あります。下総の国の行徳は江戸時代以前から塩を岩槻道を通じて各地域へ送り出していました。長年越谷宿や大沢宿は岩槻や慈恩寺に行く人々の宿場でもあったようです。【榎本淳三郎】
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