元荒川大野島水管橋の側道を降りた所は、以前周辺が河川に囲まれていたとされる大野島地区で、「宝永三年(一七〇六年) みぎ ぢおんじ道」と記された、河原の自然石の道しるべが、水管橋下の道路に置かれていました。目の前の県道を北西方向に進むと田畑が迫る元荒川沿いの道となり、程なくして交差する国道一六号を横切ると、新曲輪橋交差点に出ます。旧岩槻城内へ通じていたこの橋を渡ると現在は岩槻城址公園となっています。さらに北西に進むと岩槻橋となり、近くに唐招提寺金堂を思わせる西福寺本堂が、川岸を通るこの道から望めます。お寺は東岩槻駅(東武線)から歩いて数分の南平野地区にあります。江戸時代初期(一六〇〇年頃)に開山しました。ご本尊は阿弥陀如来です。幾度も災害にあい、創建から三度目の再建は平成二六年(二〇一四年)でした。こちらのお寺には平成期に実施された区画整理事業で青面金剛や馬頭観音などの多数の石塔が移転されました。平野地区周辺から集められた多くの石仏のなかには慈恩寺への道標も含くまれていました。新曲輪橋近くの道端に置かれていた半跏思惟のお地蔵の記述です
南 はとがや江 四里 右 こしがや江 三里左 志おんし江 廿六丁 かうの須江 五里半
と記されています。この地蔵道標は、女性の戒名が書かかれた墓石とのことです。この場所から慈恩寺までは二六丁=二.八三キロメートの道のりとなっています。また本堂脇に並べられた多くの石仏の中にも、 小さな観音様(15cm)の道標があり、
右 志をんし道南 こしがや道と
記されていました。 私が慈恩寺へ行き始めた頃は、西福寺を通り過ぎて、元荒川の土手にある東武線の踏切を渡った先の慈恩寺橋の手前から高台にあるお寺を訪ねていました。西福寺の見学の際お寺の和尚から、昔から越谷方面より来て慈恩寺に向かう人達は、元荒川沿いのこのお寺の手前で右方向に曲がり、門前の道を通り、お参りに行っていたと聞きました。区画整理事業以前は村の字堺線上にこの道があり、花積の丘陵地へ繋がっていました。【榎本淳三郎】
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