岩槻九町(岩槻宿)から他の地域に行くための出入口(現在の本町一、二丁目児童センター入口交差点付近にありました。)の一つに「市宿口」があります。この出入口は、「加倉口」「加倉口御門」「小切所」などとよばれていました。交差点の手前に木の柵があり、柵の外右側(本町二丁目側)に御門礼建所、柵の手前右側(本町一丁目側)に番所が設けられていました。江戸時代にこの市宿口は、深作、岡野(丸ケ崎)、貝崎、小深作、宮ヶ谷戸、宮ヶ谷戸新田、風渡野、門前、新堤、宮野下、中里、大谷、蓮沼、島、砂、堀崎、大和田、新井、中丸、中野、中川、御蔵、白岡、笹丸、山、片柳、染谷、代山、寺山、丸山、上野田、膝子、谷下、加倉等の旧大宮市東部地区及び旧浦和市域のかつては南部領と呼ばれた村々の人々が利用していました。この地域の人々は、市宿の市(いち)日(毎月一と六のつく日に開催されました。)に、農産物等を持ちより、生活に必要な品々を買い求めていました。つい最近までこれらの地域に、岩槻の商人が注文を取り品物の配達をしていました。番所には、三ッ道具幷道具立、棒、提灯台、大提灯、箱提灯、水溜桶幷手桶、取縄、松明、はしご、油徳利、火鉢、むしろ、手錘桶、ひしゃくが備えられていました。市宿口番所の勤番(木戸番)は、市宿町の人が勤めていました。木戸番の交代は、木戸番を勤めていた人が、役柄免除の願いを市宿町名主に願い出ます。名主は、この願い書を町奉行に提出し、同時に後役の人の願い書も提出しました。許しを得た後役の人は、不祥事を起こしたら木戸番役を召し上げてもよい旨の証文を名主や町奉行に、提出したのちに木戸番役となりました。市宿町の名主は、町の組頭等に紹介し、市宿町の組頭は新しい木戸番役を連れ他の八町に紹介して歩くのが慣習でした。役目料は、市宿町分と加倉村分の田畑四反六畝の耕作をする権利でした。写真の図は、天保十四年(一八四三年)四月十二代将軍徳川家慶が日光社参の節に作成された岩槻城図の市宿口の部分で、道の真ん中の赤線は将軍の通行路としてのしるしです。市宿口の様子は、木の柵・冠木門・番所が描かれています。この門の両側は、岩槻城を囲む土塁です。この道は、江戸に至る道筋として人々に利用されました。市宿口は、史料によっては柵だけ、屋根付きの門、この図のように冠木門が描かれており、詳細については今後の課題と致します。また、この冠木門を通行するときには、前稿(田中口門)のように、槍を倒して通行したのでしょうか。【文責・飯山実】
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