新町は、丸山病院の通りで、横町から弥勒寺の通りまでで、道の両側にひらけた街並みをいいます。市宿町の南側に位置し、江戸時代初期は田畑でしたが、岩槻城主阿部重次(一六二八年から一六五一年の岩槻城主)の時に、田畑の地主であった市宿町の勝田九郎左衛門・押田勘解由・河野縫之助・柏崎玄播・瀬戸兵庫、横町の齋藤七郎兵衛・平野又左衛門の七人は協議を重ね、阿部家に願い出て町屋に取り立てました。地名は、旧来の市宿・大工町・久保宿町・渋江町などと比較して、新しく町屋になったので「新町(しんまち)」と名付けられました。初代の町名主は、開発者の一人平野又左衛門が務めました。検地は明暦二年(一六五六年)に行われ、町の石高は百六十一石余でした。阿部家時代、町屋、田畑、阿部家家臣の組屋敷がありました。宝永六年(一七〇九年)の人口は、男百七十八人、女百六十五人の計三百四十三人が居住していました。岩槻城主永井直陳(ながいなおのぶ、一七一四年から一七五六年の岩槻城主)の時の延享三年(一七四六年)町の様子は、町の長さ四町十間(二八〇メートル)、道幅六間(約十一メートル)、名主一人、組頭三人、馬数一匹、家数五十七軒、人口二百九十人、寺社は光明院、宝乗院とあります。光明院は町の中ほどにあり、真言宗に属し弥勒寺の旧末寺で稲荷山光明院といい本尊は不動をまっていましたが、明治初期に廃寺となりました。宝乗院は、当山派修験に属し奈良の宝蔵院の配下で、本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)をまっています。人々には「庚申(こうしん)」と呼ばれています。現在の公民館の所にあり、六十年に一回の祭礼が行われています。人口が、宝永六年から延享三年の三十八年間で五十三人減っていますが、その訳は不明です。新町の地形を見ると、町の中央部に谷地が入っているので、横町から新町を通してみてみると、信号のある駅前通り付近から坂道となり下っています。また、弥勒寺通りから見ると緩い坂道となっていることがわかります。岩槻城は、城と武家屋敷と城下町を土塁(大構、総構、お土居などと呼ばれています。)で囲まれているといわれていますが、この土塁は台地上のみで、新町の東南部、谷地部分には土塁がありません。江戸時代の絵図をみると、町屋などが描がかれていますが注記がないので、詳細が不明です。弥勒寺と新町の交差点は、変則の十字路で、弥勒寺側に柵や寺の建物などが描かれています。また、丸山病院付近から市宿町にいたる「新町横町」も描かれています。【文責・ 飯山実】
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