新曲輪町は、元荒川に架かる新曲輪橋から西に向かって進むと、公園から来た道と交差する変則十字路を過ぎ、広くなっているところを右に入る道が江戸時代からの道筋です。直進すると元の道に戻り、広い道を直進し、信号の或る交差点(角にコンビニがあります)までの道沿いの集落をいいます。町名の由来は岩槻城にあった七つの曲輪で、最後にできた曲輪だから「新曲輪」になったと言い伝えられています。しかし、七つの曲輪には民家の集落はなく、曲輪を名乗っていてもほかの曲輪とは性格を異にしています。伝承によれば「天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の小田原城攻めにさいして、岩槻城は小田原の北条氏の支配下にあったので豊臣秀吉に対抗するための城郭防備の一つとして、元荒川の渡河地点防備のための出丸を新たに築造したところから『新曲輪』と呼ばれるようになった」と伝えられています。この新しい出丸は、江戸時代になると「御林」となりました。人々からは、御林又は御林山と呼ばれ、大正14年3月31日に埼玉県指定文化財に指定され今日に至っています。御林は、城郭の一部なので新曲輪町には属していません。岩槻城絵図には「町の長さ六丁八間(約六六二メートル)道幅三間半(約六メートル)家数二十一軒」とあります。延享三年(一七四六年)の町の様子は、名主が一人、組頭は史料が虫食いのため不明、家数が三十四軒、人口は百二人です。元荒川には、川の中に島が二つ築かれ、その間に木橋が架けられています。この木橋と中島を総称して新曲輪橋といいます。新曲輪橋のたもとに新曲輪河岸があり、新曲輪町名主原田家が船問屋を営んでいました。原田家は、岩槻城主から御舟方として藩のお抱え船を預かり年貢米の廻送を一手に引き受けていた御用商人を勤め、元荒川筋の辻河岸、新曲輪河岸、須賀河岸、末田河岸などを差配していました。天保十三年(一八四二年)新曲輪河岸を利用している人々は、市宿町、久保宿町、新町、横町、林道町、加倉村、古ケ場村、江ヶ崎村、表慈恩寺村、平林寺村、辻村、風渡野門前町などに及んでいます。取り扱っていた商品は、御廻米、大麦、灰、砂利、石塔、赤穂塩などでした。河岸の跡は、河川改修により面影は残っていません。江戸時代初期阿部家時代には、町の北側、御林と新曲輪町道の間に武家屋敷があり、約二十五家が居住していました。しかし、阿部家が岩槻城を去ると、この武家屋敷は畑となりました。【文責・飯山実】
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