江戸時代の林道町(りんどうちょう)は、梅照院の交差点から,西にのびた道沿いにたからやの交差点までを云いますが、江戸時代初期岩槻城主阿部家時代は、「六番町(ろくばんちょう)」と呼ばれていました。江戸時代中期以降岩槻城主大岡家時代には、「六番町」または「林道町」と称しています。戦前の耕地整理でなくなってしまいましたが、住吉神社付近から、元浅間の黒田屋や付近に至る道があり、この道は「釣上道(かぎあげみち)」または「江戸道」「江戸海道」「日光御成道下道」などと呼ばれ、岩槻城と江戸藩邸とをつなぐ大事な道筋の一つでした。六番町の地名の由来は、天神裏小路の南側、城と城下町を囲った惣構(そうかまえ、土塁)の外側に新たに士族屋敷を設け、道路は惣構側から一番町、二番町、三番町、四番町、五番町、六番町と名づけられたことにより、六番町と云うようになりました。林道は、釣上道に植えられた杉の並木が林のようにこんもりしていたから、この名がついたといわれています。延享三年(一七四六)頃の町の様子は、町の長さ三丁二十五間、家数十八軒、人数百七拾三人、名主一人、組頭一人、馬一匹、寺院は徳宝院と報告されています。町高は百弐拾九石三斗四合で、検地は阿部家時代の明暦二年(1656)に行われました。徳宝院は、末田村和光院の配下で東山派に属する山伏でした。徳宝院の土地は、他の寺院と異なり年貢が付加されていました。文政九年(一八二六)の町役人は、名主弥右衛門、組頭伝兵衛、百姓代定五郎が務め、町内の長さ五尺、幅二間二尺の土橋を管理していました。横町から岩槻城の出入口の一つ横町口を出て、南に向かう道筋の両側にひらけた街は「杉並」または「林道杉並」などと称され、町の長さ四丁十二間、道幅五間、家数八十二軒と報告されていますが、この中には寺院の記載はありません。宝暦二年(一七五二)の商家書上には、木綿問屋がありと記され、岩槻名産の木綿が市宿町、久保宿町、渋江町などとともに広く売買されていたことがわかります。また、紺屋などもありました。現在のさいたま市シルバー人材センター岩槻事務所付近の惣構を開鑿し、新たな出入口として「林道口」が設けられ、通行の便が図られ、現在のような道路状況になりました。また、惣構と一番町の間に新しく新道が造成され岩槻藩士の組屋敷も設けられました。五代将軍綱吉は犬公方として知られていますが、岩槻城下に於いても犬を保護管理するため、林道町に犬小屋が設けられました。この犬小屋の地名は「戌子屋(いぬごや)」と表記されていました。【文責=飯山実】
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