久保宿町は、岩槻駅入口交差点から春日部よりの信号付近から渋江交差点までの旧日光御成道の両側にひらけた町です。地名の由来は、渋江交差点から旧区役所跡地を見ると低くなっていて、旧区役所脇の下水路に水が集まるようなくぼ地にひらけた街なので久保宿町(窪宿町)というようになりました。延文六年(一三六一)の『市場祭文』に「岩付くほ宿」とあり、岩槻城築城以前から街が形成され、市(いち)が開かれていました。岩槻城主高力清長公時代に年貢取立ての騒動が起こり、久保宿町の人々を皆殺しにするというお触れが出たので、町民は逃げ出してしまった。そのため冨士宿町の人々などを移し復興したという。そのため戦国時代から居住する家は、ありません。岩槻城主阿部家時代は、久保宿町と大工町が町として独立していましたが、江戸時代後期の街並み整備により、久保宿町、大工町、旦過町、代官町は久保宿町と総称されるようになりました。宝永六年(一七〇九)の人口は、久保宿町九百七十三人、大工町百二人です。延享三年(一七四六)町の概況は、町の長さ(御成道)五町三十間、道幅七間、家数百五十六軒、人口九百三十八人、名主三人、組頭四人、馬数九疋でした。岩槻宿の機能を果たす本陣一軒(齋藤斧七郎)・脇本陣一軒(中島徳右衛門)・人馬継立問屋場一軒があります。お寺は、願生寺、大龍寺、本栄寺、三光寺、大源庵があり、旦過町に集まっています。旦過(たんが)の地名は、「禅家にて雲水僧の修行する所を旦過寮と云う」ので、ここから旦過町(明治時代から丹過町と表記する)という説があります。大工町は、大工さんなどが住んでいたので町名になりました。岩槻職人と江戸職人とが競い岩槻職人が勝ったという話も伝わっています。町内には、大工さんなど職人の信仰する聖徳太子堂があります。岩槻の一里塚は、江戸日本橋から九里の位置にあり、慶長九年(一六〇四)大龍寺の入口付近の御成道の両側に築かれ、榎が植えられていました。大龍寺は、岩槻城主青山忠俊公の開基で、境内墓地に岩槻人形中興の祖橋本重兵衛の墓所があります。大正時代には、中部実業学校(現在の埼玉県立岩槻商業高校)校舎として本堂が使用されました。三光寺は、愛宕神社の別当寺で、天保七年(一八三六)岩槻宿騒動の時一揆に参加した人々が籠りました。願生寺は、延文二年に創立された寺院で、「岩付くほ宿」の市(いち)は寺の門前で開かれていた説があります。江戸時代の市立については、認められていませんでしたが、明治四年(一八七一)三と八の付く日に六歳市を開くことが公的に認可され、戦後まで続いていました。【飯山実】
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京都のお茶屋さんとつなぐ岩槻出身の元芸妓さん
岩槻郷土資料館だより19 「徳川家康判物(はんもつ)」
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