横町口(本町四丁目、杉並町・林道町は江戸時代初期に整備された町)の四か所がありました。林道口は、江戸時代中期の街並み整備によって新しく開設された木戸口です。横町口は、土塁(大構)の切り通しにあり古くからの木戸口で、杉並町・林道町は江戸時代初期に整備された町なので岩槻宿の外に出る木戸口としました。田中口(現在の出口交差点手前の渋江寄りにありました。)は、日光御成道筋の木戸口で「田中口門」といわれています。江戸時代中頃の城絵図を、渋江方面から龍門寺方向を見ると門の手前右側に番所や御門礼建所などがあり、日光御成道には門が設けられ、「田中口門」と呼ばれていました。門の両側には、土塁(大構)があり、土塁には柵が設けられています。土塁の外側には岩槻城の防備のための堀(排水を兼ねています。現在はコンクリートの板が架けられ、歩道になっています。)には、日光御成道の道路両側に柵が設けられていました。この門をでると日光御成道と原市道・桶川街道に分かれる辻になっていました。そのためこの門は、菖蒲・騎西方面や幸手方面の人々が、木綿等の商品などをもって岩槻の市に来るための道筋になっていました。この出入口にあった門について次のような言い伝えがあります。出口は土居の外にありましたが、田中町の木戸口に門があり、将軍が日光社参の時、行列の先駆けに槍をたてて“したに- したに-”と行くのですが、木戸口の門には屋根があり、槍を立てたままではとおれないので、幕府は屋根を壊すように命じました。時の岩槻城主は永井直陳公で、剛直な性格の持ち主でしたので「屋根を壊すには当たらない。槍を倒して通りなさい。」といい、行列の供頭は槍をかえすことは将軍の威光に拘るので頑として応じませんでした。しかし、岩槻城主永井直陳公は、槍をかえして通させてしまいました。そのため将軍の威光を傷つけられたとして、岩槻城主永井直陳公は美濃国加納城(現在の岐阜市)へ転封させられてしまいました。この時からこの門を“槍返しの門”というようになり、この後は、渋江町浄安寺の山門になったといわれています。真偽のほどは不明です。この一件があった後に於いても、田中口には門が設けられていました。田中口の門の構造は、鏡柱(左右にある柱で冠木を支える柱)、冠木(鏡柱の上部で横に貫通する柱)、控柱(鏡柱を後部で支える柱)の上に屋根をかぶせる一般的な構造で、番人が張り付いている管理用の門と考えられています。【文責 飯山実】
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