岩槻地方史研究会 岩槻九町について⑯ 「地誌にかかれた岩槻宿①」

岩槻周辺に南部領と称されている地域があり、盛岡南部侯の領地であったか否かの調査をするよう命を受けた晴山忠太が弘化四年(一八四七年)三月十六日盛岡を出発し三月二十七日岩槻に到着し、岩槻宿の南部屋(旅籠屋)や南部領二十八ヶ村(見沼区、緑区、大宮区)などを訪ね歩き、四月八日岩槻を立ち四月十九日盛岡に戻っています。
この時の聞き書きをまとめた『岩槻御旧地探索秘記』(いわつきごきゅうちたんさくひき)から岩槻宿の様子を見ていきます。
辻から出口(宮町一丁目)にかけては、「岩槻町入口 荒川というあり 土橋二つあり 手前の橋は辻橋という 中島少しありて向の橋は田中橋という 川より手前左に越谷への道あり」これは幸手から御成道を通り岩槻に至る道筋の様子で、元荒川を〝荒川〞と記しています。
また、通常は春日部道といっている道を〝越谷への道〞と記しています。
これは川土手が浅草浅草寺から慈恩寺への巡礼道として利用されていたことを裏付けています。
現在の日ノ出町交差点付近にあった田中口については、「町の入り口の門は屋根の付たる門なり 内に番所あり」とあり従来から言われている屋根つき門の通りです。
消防団第二分団の脇道は、久伊豆神社に至る道筋で第二分団の裏手にあった新正寺口については「久伊豆大明神への入り口 大門有りて内に番所あり 参詣の者を改め候所なりともうす」とあり、ここの入口は従来木の柵といわれてきましたが〝大門〞でできていることがわかります。
また「本道を四五丁程も通り候所 厳重に番所もあり 番人二人おり 何やら内職をいたしおり候様子にて改めも致さずゆへ 無断にて此のところを大門より通り抜け 田中町と申す所え出」とあり、当時の木戸口の様子がうかがわれます。
この新正寺口番所の管理は、田中町に任され、人選も田中町でおこなっていました。
門の番人は、生活の為内職をしていたことが分かります。
市宿町については「市宿町の末に天王の堂 町の真ん中にあり この町出抜けに木戸門ありて 番所もあり」、天王の堂とは現在の八雲神社で、このころは道の真ん中に位置していました。
木戸門は、加倉口または市宿口と呼ばれている出入り口です。
市宿町の勝田家については「岩槻市宿町 勝田喜衛と申すもの名主にて宿屋もいたし是は裏屋にて落ち着きたるよき宿ともうす」とあり、勝田家が宿屋をしていたことがわかる貴重な史料です。
南部屋は、「同町東側に南部屋平八と申すものあるよし 此のもの四五代もこの町に住居にて元は宿屋なりという 当時は料理茶漬屋を致し候趣を承り」とあり、晴山忠太の南部の出身か、南部様の家臣か等の問いには「往古の事は相わかり申さず候とのこと也」と回答しています。
宿屋時代の名残は「奥座敷に関播磨守の宿札あり」とあります。
従来岩槻は日光御成道なので将軍以外は通行しないとされてきましたが、関播磨守の通行が確認できます。
【文責・飯山実】

新正寺口絵図

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