前稿に引き続き盛岡南部侯の家臣晴山忠太が、弘化四年(一八四七年)三月二十七日岩槻に到着し、四月八日岩槻を立つまで、岩槻城下や周辺地域おいて「南部」という屋号や地名などの聞き書き調査をまとめた『岩槻御旧地探索秘記』(いわつきごきゅうちたんさくひき)から岩槻宿の様子を紹介します。横町(現在の本町二丁目の一部及び本町四丁目の一部)について「市宿町より左へ横町と申す この町も三丁(町)程も長サあり」とあるが、市宿町から見ると左ではなく右折になります。久保宿町から見ると左折になるので、晴山忠太の立ち位置は、久保宿から見た表現と推定できます。江戸時代後期の「岩槻城絵図」を見ると、市宿町と久保宿の境には木の柵が描かれていて、その位置は旧押田書店付近と推定されていることによります。町の長さ三丁(三百二十七メートル)は、「岩槻城絵図」に二町四十六間(約二百九十メートル)とあるので目安の数値と考えられます。横町や林道町の様子は、「この横町に宿屋三軒ばかりもあり さりながら小さき宿屋ばかり 右側に稲荷の宮あり 寺もあり(略)この外にリン堂(林道)宿と申す町村弐丁程あり 左は城の南にて組屋敷と相見得る処あり それよりリン堂と申す 町の末左に杉林の道」また「横町と申す所にて刀屋と申宿屋え泊り」「岩槻の横町刀屋という宿」と記されています。横町の宿屋三軒の内一軒は、屋号を「刀屋」という旅籠屋であることがわかります。この刀屋については、岩槻九町 その六 横町の稿で触れましたが、主人は平四郎といい、与野から笠間稲荷へ行く講の人々が活用していました。刀屋があった場所は不明です。参考ですが、明治時代中頃横町に旅宿一軒が記録されています。横町は他の街と同様に、街の中に道路があり、道路の両側に家が張り付いています。街の右側に稲荷社がありと記されていますが、江戸時代に稲荷社があったことは確認されますが、その位置については不明です。お寺は、真浄寺です。真浄寺は、駅前通りができる以前は横町から出入りしていました。ここでいう林道宿の長さ弐丁(弐百十八㍍)は、杉並町(町の長さ四丁十二間)を指すのか六番町(町の長さ三丁四十一間)を指すのか場所の特定はできません。組屋敷は、横町から桝形(横町口)を過ぎた左側の地域で、組屋敷と道路の間には町人街がありました。組屋敷は、岩槻城主阿部氏の代に造られ岩槻城主大岡氏時代まで続いた士族屋敷の一つで、一番丁から五番丁まで(現在の仲町一丁目)をいいます。江戸時代後期大岡氏の時に整備され二番丁、四番丁は消滅しました。【文責 飯山実】
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