江戸時代の文化八年(一八一一年)から文政十二年(一八二九年)の十九年をかけて、江戸府内及び近郊から関東・駿河・三河・尾張に至る地域を遊歴し見聞をまとめたものが『遊歴雑記』です。また『十方庵遊歴雑記』とも言われています。著者の津田大浄は、号は十方庵といいます。大浄の先祖は、織田信長の兄の子津田隼人正で、その子信賢は三河国の本法寺(真言宗)に入り賢順と改め廓然寺と称しました。賢順から八代の孫が大浄です。大浄は、文化八年(一八一一年)五十一歳で住職を子の大恵に譲り、遊歴の生活に入りました。遊歴雑記』の中で岩槻地域は「岩槻領釣上村神明宮の林泉」と「岩槻の風土城内天主台の怪異」の項があります。他の項にも岩槻に関する記載が散見されます。「岩槻の風土城内天主台の怪異」の中で、『岩槻から千住を通り江戸まで九里八町、岩淵を通り江戸まで九里半』と記されています。千住を通り岩槻に至る道筋は、岩槻城主が江戸と岩槻を行き来するとき、岩淵を通る道筋は、将軍が日光社参の折りや岩槻から江戸の藩邸に手紙や荷物を送るときに使われています。岩槻九町については、『南北の町の長さおおよそ十三、四町、東西の町の長さ五町あまりであるが、家並みの多くは板屋根萱葺で瓦葺は稀であった』という。近年まで残っていた岩槻城下の士族の家は、萱葺または藁葺でした。今残る土蔵造りは、明治初期以降に作られたものです。市については、『市日は縦横の町々は賑わい、南北の町筋は、種々の商人が往還に店を取り広げ、男女たち集う程で、大浄は本町の食店に立ち入り昼餉』をしています。このころの市は、市宿町を中心に賑わっていたことがわかります。市宿町では、街を通る御成道の真ん中に市神様が祀られ、商人は市神様の前から背中合わせで、二列で並び近郷近在の産物や岩槻名産の木綿等を販売していました。ここに書かれている本町とはどの場所なのか現在の所不明です。城のことは、『南北の町の上北東の方にあり、平城にして二万石の高に応じては方量広し、城内天主台は東北の方にありて今石垣のみ残れり、そのあたり草背丈に生繁りさらに通路なし、若人ありて天主台の辺へ近づく事あれば忽然としてその人紛失すといい伝え、更に叢の近辺を通行するものなければ草いよいよ繁茂す、これ蝮地(うわばみ)の所為かと巷談す』とあります。天主台とは、本丸の事を云い、岩槻城主がここに居住していたのは高力氏から松平氏迄で、松平氏は元禄の頃三の丸に移り、以来本丸は草地になっていたのでこのような逸話が発生したと考えられています。【文責・飯山実】
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