水は、いつの時代でも生きていく上に必要かつ大切なものです。雨が降らず日照りが続き池や沼などが干上がると田植えなどの農作業に困るので、岩槻地域では近年まで榛名神社(群馬県)等の神社にお参りをして、お水を戴き持ち帰えつて田んぼで祈願の報告をしてから、お水を田んぼに注ぐと雨を降らせてくれるという。また、雨乞いの祈祷をして雨を降らせるという考え方が広く伝わっていました。雨乞い祈祷は、江戸時代の古文書には「湯立神楽」または「祈祷」と記されています。岩槻城主小笠原氏時代の様子を記すと次のようになります。岩槻城主小笠原長重(老中、西丸御付)は、宝永六年(一七〇九年)四月六日より十日まで湯立神楽の祈祷をするように、光明院に仰せ付けています。仰せ付けられた光明院は、惣町(岩槻九町)に六日より十日まで湯立神楽御祈祷修行の由を伝え、特に九日は光明院の神前で湯立祈祷(湯立神楽)を行うので、一日正月にして参詣をするように回状を出しています。九日は、各町からお手伝い一人が動員され、湯立神楽の神口社人は大門町の太右衛門が務めています。九日は、一日正月との触れが出ているので街中の人々が、光明院や久伊豆様(久伊豆神社)に参詣しています。湯立神楽は、注連縄で囲まれた中に釜場を設け、その上に大釜を置いて湯を沸かし、この湯を神様に献じた後、祓い神楽が行われます。次に、笹を大釜に入れ生きよいよく振り上げて参詣に来た人々に振り掛けて祓い清め願望成就を祈願する神事です。清めの行事であった湯立が、神楽の中に取り入れられ祈祷化されたと考えられています。一日正月とは、この日は仕事を休みにして、品替りを食べたり、湯立神楽を見たり社寺の参詣などをして余暇を過ごしています。また、同年四月廿九日久伊豆神社の神前に於いて湯立神楽が催され、湯釜が二口設けられ、町分は越谷町の和泉、在方は大宮町の近江が神口を務めています。この神事に町役人は裃を着用し、御代官衆も裃にて参詣しています。この日の夕方に雨が降り始めたので湯立神楽は終了しました。最後に惣町の名主たちは小頭衆に終了の挨拶をしています。同年五月八日久伊豆明神様(久伊豆神社)にて湯立神楽が催され、神子は大門の人が務めています。惣町や在方の名主など人々が参詣に訪れています。同年六月廿日この日から光明院にて三日間湯立神楽がおこなわれました。この時は、三日正月の触れが惣町に出されています。この時銭一貫八百四文が光明院に奉納されています。ここに出てくる光明院は、修験道系の寺院で、久伊豆明神社(江戸時代の久伊豆神社の名称)の別当寺で新正寺曲輪にありましたが、明治初期に廃寺となりました。【文責=飯山実】
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