今流行病によって、いろいろな弊害がみられますが、江戸時代も度重なる流行病に苦しめられていました。江戸時代も世の中が安定してくると戦場での傷を治す術を受け継いだ外科や金瘡(きんそう)、針灸、小児科、歯科などの医師が職業として社会的に認められ、江戸幕府や大名に登用されたり、町人の治療にあたっていました。岩槻城主阿部正次(一六二三年から一六三八年)は、十二人の医師を召抱えていました。岩槻城主板倉重種(一六八一年から一六八二年)は、石高六万石の大名でしたが召し抱えていた医師は十四人で、本道医師は立花正記(高三百石)・山本玄良(高三百石)・本門長伯(高百石)・並河三益(高百石)・南部秀白(高百石)・山口養節(高二百石)・稲垣玄節(高百石)の七人、外科は沢口智徳(高二百石)・森孝節(高百石)・山中卜意(高百石)、雪沢庭山(無足)、岸山徳(無足)の五人、歯師は近藤三達(廿人扶持)の一人、針医は中村一山(高六十石)の一人です。勤務に対する手当は、知行高で三百石から六十石、扶持で廿人、無足など違いがありました。本道とは、内科を担当する医師で御匙(おさじ)と称され、外科・眼・歯師・針医の医師は御療治と呼ばれていました。岩槻城主大岡家時代(一七五六年から一八六八年)の医師は、本道医師が加藤玄甫・篠崎倫訳・山本琳頑・上原仲良・堀原道寿・吉田昌甫・山本義元・中根玄亮、外科針治医師は松葉昌甫・簗献吉・正木鎌受・篠崎麗鐸・加藤玄斎などが務めています。格付けは「家中諸士席付幷席高規定」によると、本道は出礼給人袼の末席十人扶持、外科針治は出礼近習の末席十人扶持とあります。当時の医師は、眼病、疱瘡(天然痘、急性伝染病)、歯痛、癪(しやく、一種の痙攣)、腹痛、火傷などを望診(顔色、肌の色から体調を診療)、聞診(声の大きさや臭いもとに診療)、問診(病歴や体調・体質等について聞き出す診療)、切診(脈に触れたり、胸部に触れたりする触覚診療)の四診(ししん)をもとに、漢方薬を調合した飲み薬や軟膏などで治療をしていました。薬は医師が調合していたのでは「薬師(やくし)」とも呼ばれました。居住地は、士族屋敷や新町や久保宿町でした。篠崎家は、久保宿町の日光御成道に面した邸内に郷学「戩穀堂」を開き、近郷近在の子弟の教育活動を行っています。松葉昌貞は、戩穀堂で学んだあと、江戸で医学を修め、大岡家の医師になりました。戸塚家は、岩槻城主小笠原長重に召し抱えられた医師で、人々の治療に貢献していたと伝えています。戸塚隆軒が使用した外科道具が保存されています。また、冨士宿町には、二人の医者がいました。【文責・飯山実】
この記事へのコメントはありません。
この記事へのトラックバックはありません。
Δ
政策の設計〜実施の先で 4種の評価方法を知る
岩槻郷土資料館だより㊳ 「岩槻藩遷喬館茅葺屋根の工事
トップページに戻る
移動済み情報記事一覧へ
Copyright © WEB ら・みやび 岩槻 All rights reserved.
この記事へのコメントはありません。