関ヶ原の合戦が終了した翌慶長六年(一六〇一年)徳川家康は五街道や脇往還に宿などの整備を致しました。日光御成道は、日光道中の西側の脇往還と位置づけられ、将軍の日光への往復の社参道の宿として岩槻宿が取り立てられました。宿には、運輸、通信、休泊を主として行うために問屋場や本陣などが設けられました。また、大事な仕事の一つに御成道の掃除があります。岩槻宿の宿駅は、市宿町と久保宿町が担い、他の七町は「脇宿七カ町」とされ、両町の定助郷になっていたので、岩槻宿は城下九町の総称としても用いられました。日光御成道や岩槻宿に関する支配は、岩槻城主の支配地でもあり、幕府の道中奉行の支配地であり、二重支配でした。交通量の増大にともない、明和三年(一七六六年)飯塚村、下新井村、真福寺村、柏崎村、浮谷村、横根村、笹久保新田、笹久保村、黒谷村の九か村勤高五千二百四十八石が岩槻宿の定助郷に組み入れらました。この時道中奉行から岩槻宿に助郷帳が交付され、助郷徴発の権限は岩槻宿問屋の裁量でできるようになりました。岩槻宿の宿建人馬は、人足二十五人・馬二十五疋を一日に提供するのが原則で、これを超過する分は助人馬村または助郷村などに負担させていました。これらの業務を行うために宿役人が置かれ、問屋場が事務を担当しました。天保十四年(一八四三年)頃の岩槻宿の様子は、岩槻城下九町または城下町等の総称として“岩槻宿”と呼ばれ、宿高は三千百七十二石余、地子(地租)免許は四万二千百四十五坪。宿内の家数は七百七十八軒、宿内の人数は三千三百七十八人でした。本陣と脇本陣はそれぞれ一カ所で、久保宿町にあり、本陣(建坪約百二十三坪)は齋藤斧次郎、脇本陣(建坪約五十六坪)は中島徳右衛門が務めています。この本陣は、明治時代に郡役所として一時活用されました。本陣・脇本陣は、現在の大正館付近にありました。社寺参詣の人々や一般の旅人等の休泊する旅籠屋は、市宿町、久保宿町、横町などに十軒ほどありました。高札場は、一カ所で市宿町の中ほど、現在の芳林寺入口の手押し信号付近にありました。人馬継問屋場は 市宿町(現在の芳林寺入口の手押し信号付近)にあり、毎月一日から十八日までは市宿町、毎月十九日から晦日までは久保宿町が交代で勤めました。宿役人の問屋(五人)、年寄(九人)、帳付、人足指、馬指、迎番など詰めていました。問屋・年寄は、城下町の名主等とかねていました。市は、一と六の日の六歳市で市宿町で開かれています。宿の往還に面して住む者は、屋敷の地子(地租)免除を受ける代わりに、馬または人足を提供する義務があり、間口六間以上の屋敷地を持つ者は伝馬役、間口六間以下の屋敷地を持つ者は人足役、旅籠は御用宿などの負担がありました。本陣、脇本陣、問屋は、宿の中央部に設けられ、街路の両側に水路が設けられています。明治五年(一八七二年)正月伝馬所・助郷廃止の布達が出され岩槻宿は終わりました。【文責・飯山実】
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