弥勒寺は、江戸時代の岩槻城下市宿町(現本町二丁目)にある新義真言宗智山派の寺院です。現在は寺院の本末制度はありませんが、江戸時代の本寺は京都醍醐三宝院で、弥勒寺は中本寺にあたり、末寺や門徒には宝光寺(宮下、現見沼区)、東光寺(渋江町)、観音寺(渋江町)、西光院(市宿町)、光明院(新町)、智証院(箕輪)、秀運寺(馬込)、永福寺(古ケ場)、光明院(宮町二丁目)、孫末寺に興生寺(宮下)があります。山号は「光巌山」、院号は「釈迦院」、寺号は「弥勒寺」といいます。本尊は、五大明王を祀っています。五大明王(ごだいみょうおう)とは、不動明王を中心に四方に軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)[左下]、大威徳明王(だいいとくみょうおう)[左上]、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)[右上]、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)[右下]の五体です。江戸時代の寺域は、北側は新町(丸山病院通り)の町屋とそれに続く西光院を境にお土居まで、西側から南側はお土居の内側(台地上)、東側はお土居がなくなる丸山病院手前までの地域です。絵図を見ると現在の新町丁字路の所に弥勒寺の木柵、その先に山門や堂宇が描かれています。お寺の由緒は、『新編武蔵風土記』に「当寺寛元四年(一二四六年)鋳造ノ古鐘ヲ本堂ニ掛ケタレハ 旧キヨリノ開闢ナルコト知ラル 境内ニ卜部六郎季國トイヘル墓碑アリシ由ヲ伝レド 次第ニ破損シテ今ハ笠石トオホシキモノ丶ミ残レリ」とあります。堂宇は、清滝権現社(雨乞堂)、疱瘡稲荷社、稲荷社、薬師堂が書かれています。『武蔵国郡村誌』には「建久年中(一一九〇から一一九九年)開基創建後衰微せしを以て寛文年中(一六六一から一六七三年)僧秀典中興す」と。『寺院明細帳』には「創立は建久年中絶え、寛元四丙午年中奥秀典代開基にして、鎌倉北条重時臣国家安穏の為め梵鐘一基納附あり」、 堂宇は本堂、庫裏、境内仏堂は観音堂、地蔵堂、薬師堂、雨乞堂(青龍王)が報告されています。雨乞堂は、岩槻宿で行われた雨乞い祈祷の祈祷所となっていました。卜部六郎季國は、『前太平記』に書かれている「岩付中野合戦事付卜部武俊最後事」の卜部武俊と推定されています。岩付合戦とは、長元三年(一〇三〇年)平忠常が千葉で乱を起こし武蔵国に侵入してきたので、乱を鎮めるために京都から派遣された源頼信が岩付原で戦い、忠常が敗退した合戦をいいます。この時源頼信の軍にいた卜部武俊は、敵将和淵元衡を討ち取る戦功を揚げましたが、流れ矢に当たり戦死しました。源頼信は、卜部武俊を丁重に葬ったお寺が弥勒寺と伝えられています。寛元四年銘の古鐘は、皇居の御安泰と鎌倉騒動の静謐を引誓したものですが、鋳造や銘文などに諸説あり、今後の研究がまたれます。また、岩槻城主永井家の菩提所でしたが、大正時代に整理され、今は永井家墓所の面影はありません。本堂地下に四国八十八カ所のお砂踏みがあります。関東三十六不動霊場第31番札所です。【文責・飯山実】
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