岩槻地方史研究会 岩槻九町について㉟ 「殿さまの菩提寺 龍門寺)」

お寺への道筋は、岩槻駅西口駅前から北に延びる道を進み、一つ目の信号を右折し直進します。
右折してから手押し信号を含めて四つ目の信号が日の出町交差点です。
この交差点の左右の道が「日光御成道」です。
この交差点を左折し、手押し信号、バス停「出口」を過ぎるとほどなくして左側に寺の案内板があります。西口駅前から乗合バス(国立黒浜病院行き)を利用する方法もあります。
龍門寺は、曹洞宗に属し、旧本寺は寄居町の正龍寺です。
本尊は釈迦如来です。
寺は、佐枝若狭守が天文一九年(一五五〇)に開き、寺の山号「玉峯山」は、佐枝若狭守の法号玉峯道全上座から用いました。
寺の北東には元荒川が流れ(大正期の河川改修で流路が変わる。)、寺の前は日光御成道(中世からの古道)が通り渡し場があった交通の要所でした。
寺地は、斎田氏の館跡と伝えられ、土塁の一部が残っています。
斎田氏は、太田氏三家臣(千代田氏、宝田氏、斎田氏)の一人といわれ、三家臣は長禄年中(一四五七~六〇)に江戸、河越、岩付(岩槻)などの城を築いたといわれています。
境内墓地に斎田若狭守の墓塔があります。
斎田氏は、岩槻城主との説もあり、今後の研究成果がまたれます。
また、本堂に向かう左側に天正七年銘(一五七九)の五輪塔があります。
これは土豪中島家の墓石です。
寺には手無不動の伝承等が伝えられている古刹です。
山門脇を通り左折した奥に岩槻城主大岡忠光の墓所があります。
大岡家は、三河国八名郡宇利郷に居住していた時に大岡と称したことに始まり、徳川清康、広忠、家康に仕えた三河譜代の家臣でした。
忠光侯は、名奉行として誉れ高い大岡越前守忠相とは同族です。
忠光は、旗本大岡忠利の長子として宝永六年(一七〇九)に生まれ、享保七年(一七二二)八月二十八日八代将軍吉宗に拝謁しました。
同九年八月二十六日徳川家重の御小姓となり江戸城二の丸に勤仕し、翌年西丸の務めとなり廩米三百俵を賜りました。
その後将軍家重の御小姓組番頭、御側衆に進み、宝暦元年(一七五一)十二月七日五千石の加増を受け、合わせて一万石を領する大名に昇格し千葉県勝浦の領主となる異例の昇進でした。
同四年三月若年寄、同六年五月御側御用人となり所領も二万石を越え岩槻城主となりました。
忠光は、このころに数多くの家臣を召し抱えました。
この頃の徳川幕府の財政は赤字でしたが、忠光は、幕府財政の立て直しを行い黒字化に成功しました。
忠光は、岩槻在城五年に過ぎませんでしたが、領内にオランダ渡りの木綿や栗・梅の植樹を奨励しました。
宝暦十年四月二十六日卒し、岩槻の龍門寺に葬られました。
墓石は、五輪塔で地輪に没年や法名(義山天忠得詳院)が刻まれています。
墓所についての逸話に、忠光の墓石は、正面を日光御成道に向かって建てられていますが、それは「将軍が日光東照宮にお参りするときの通行を見守ることができるように」との願いによるものと言われています。
墓所は、大大名に並ぶ壮大なものです。
【文責・飯山実】

岩槻城主大岡忠光墓所

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