昭和七年に発行された縮尺三千分の一の岩槻町全図は、資料館の廊下に縮尺したコピーを展示しています。この地図は、当時の岩槻町の全体があらわされています。地番ごとの表示がされ、市宿、久保宿、渋江、田中など日光御成道に沿ったところでは、各地の街道沿いの町にみられるような、間口が狭く、細長い地割がみられます。これに対して、諏訪小路や裏小路などの武家屋敷であった所は一軒あたりが広い敷地を持っていることが分かります。また、この地図の原本では土地の利用について色分けされています。岩槻城の跡を見ると、廃城から六〇年ほど経ていますが、大部分が畑や山林で、その周囲の湿地は水田となっており、まだまだ城の面影を残していたものと思われます。城下町の周囲を取り囲んでいた「大構」は、茶色であらわされており、その位置をほぼ知ることができます。この段階で大構は、大部分が残っていたものと思われます。市街地の東側を流れる元荒川は、改修前の様子が描かれ、久伊豆神社の北側で大きく蛇行している様子がみられます。地図の中央やや東寄りには南北に通っていた「武州鉄道」が描かれています。太田小学校、岩槻中学校付近には武州鉄道の「岩槻駅」があり、かなりの広さがあったようです。現在の「岩槻駅」は、この当時は「岩槻町駅」と呼ばれていたことがわかります。この地図の左下に「警察署」があり、この位置が現在の「岩槻郷土資料館」になります。今後、機会をみて、実際の「岩槻町全図」も展示していきます。
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