判物とは主君などから与えられる領地関係の証明書であり、この文書では、天正一九年(一五九一)徳川家康が慈恩寺に百石もの領地を寄進していることがわかります。後北条氏滅亡後、関東に入った家康は、諸城に重臣を配置して領国の掌握と防衛につとめました。また、入国の翌年にあたる天正一九年に一斉に寺社に領地を寄進しました。このように将軍から寺領を与えられた寺院は「御朱印寺」と呼ばれ、格式の高い寺院とされました。この時の朱印状は家康の名前がなく、「福徳」の朱印のみを押印した折紙形式ものが多いようですが、慈恩寺のものは「大納言源朝臣」と署名し、花押が添えられた竪紙形式のもので、県内で最も多い四〇〇石の領地を安堵された鷲宮神社( 久喜市) などと同じ形式が用いられています。慈恩寺は、平安時代の天長年間(八二四〜八三四)に慈覚大師円仁の創建といわれています。その後、坂東三十三カ所観音霊場の一つにも加えられ、太田資正の寄進状には慈恩寺に六十六カ所の坊が付属していたことがみられ、中世に大きな勢力をもっていた寺院であったようです。家康の判物の中には「先規のごとく」とあり、中世以来、もっていた多くの所領を引き続き安堵されたものと思われます。さいたま市域では、天正一九年の段階で二十数か所の寺社が寺領を受けていたようです。岩槻区内では、慈恩寺の他に浄安寺、浄国寺、大光寺、金剛院、浄音寺、勝軍寺が朱印状を交付されていました。なお、郷土資料館で展示している徳川家康の判物は、複製で、実物は慈恩寺に収蔵されています。
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