岩槻郷土資料館一階の郷土資料コーナー入口左側に「焼けた竹矢来(たけやらい)」を展示しています。
これは、平成三年一二月から四年二月に発掘調査を行った「岩槻城樹木屋敷跡」第一地点から出土したものです。
この時の調査では、堀が三ヶ所、確認されました。
「竹矢来」はこのうち「堀2」とした調査区北側の堀の底近くの層からみつかりました。
竹の先端部を斜めに切り揃え、層の堆積と平行に南東方向に並ぶような状態で出土しました。
先端部の一部が残っているだけでしたが、おそらく、竹を組んで、垣根のようにしていた竹柵の一部と思われます。
出土した層は、焼土の層で、炭化物を多く含み、下層は固く焼けており、よく締まっていました。
こうした周囲の状況からみて、激しい火災にあったものとみられ、竹は燃えてしまい、炭になった状態でした。
「堀2」は、何度も改修されていたことがわかりました。
この「竹矢来」がみられた底に近い部分は出土した陶磁器類などからみると一五世紀の末葉頃と推定されていますが、もう少し年代的に下る可能性も考えられるようです。
なお、現在、郷土資料館で展示している資料は、石膏で表面を固めた後、取り上げた状況です。
従って、出土したものを裏側からみているような状況となっています。
「岩槻城樹木屋敷」は本丸と三の丸の間に細長く伸びていく曲輪で、「樹木曲輪」とも呼ばれています。
その南側は三の丸から城の中心部にあたる二の丸や本丸につながっていく通路になっており、厳重な防備がなされていたところであった考えられています。
「岩槻城幷侍屋敷城下町迄惣絵図」には、この「樹木屋鋪」は「総坪数二千二百三十五坪、総数居廻五百十八間四寸五尺」であるという記述がみられます。
絵図には建物がみられず、建物はなかったものと考えられています。ま
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。