須恵器は、五世紀の中頃に朝鮮半島からもたらされた、灰色をした硬質の土器です。
奈良時代になると一般的に普及してくるようで、一〇世紀頃まで使われていたようです。
岩槻区内の奈良時代や平安時代の遺跡からもたくさんみつかっています。
須恵器は、高度な技術をもった専門的な工人たちが、ロクロを使い、形作り、高温で焼くための登り窯と呼ばれる窯で焼かれたものです。
須恵器を生産するには、丘陵地で、土器をつくるための良質の粘土があり、焼くための燃料となる大量の薪が採取できることなどの条件に適していることが必要になります。
それ故、生産地は限られ、埼玉県内では、末野窯跡群(寄居町)、南比企窯跡群(鳩山町、嵐山町、ときがわ町等)、東金子窯跡群(入間市)、と呼ばれる三ヶ所の窯跡群があります。
これらの窯跡群には、たくさんの半地下式の窯跡が密集し、工人たちの住居や製作を行った場所、粘土を採掘したところなどもみつかっています。
この三ヶ所の窯跡群は、関東地方でも大きなもので、一大生産地であったようです。
この三ヶ所の窯跡と東京都の南多摩窯跡群では、当初武蔵国府や国分寺の造営に係る瓦や、使用するための土器などを焼いていたものと考えられます。
その後、日常的な雑器として一般的にも流通するものを生産するようになったようです。
こうした窯跡からは、河川などの水路や整備されてきた陸路を利用し、生産された須恵器が各地にもたらされていったといわれています。
岩槻城跡南側の府内三丁目遺跡で出土した須恵器の産地については、南比企窯跡群や東金子窯跡群が大部分を占め、茨城県や群馬県などの北関東で生産されたものがわずかですがみられます。
さらに細かくみると、九世紀の始めには、南比企窯跡群や東金子窯跡群で生産された須恵器が、全体の八〇%近くを占めていましたが、中頃には六0%に、さらに後半には四五%と減少していくようです。
そして、「ロクロ土師器」と呼ばれるロクロを用いた素焼きの土器の比率が高くなっていく傾向があります。
それに加えて、東海地方などで生産された灰釉陶器などの増加もあり、土器生産の新たな形態が生まれてきたものと考えられます。
価格:3080円 |
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。