岩槻在住の読者の祖父の方が、藤川公成という名で『へんな兵隊』を執筆。シベリア抑留の様子を『いろは加留多』として昭和55年1月に記し、後書に野辺に送った戦友の数やその後も終わらない犠牲者、後遺症等に言及し『私たちは真実を伝え後世の資とする義務がある。
私たちの生命を賭した体験と、彼の地に眠る還らざる戦友の慟哭を、一片の悪夢としてはなるまい』と、書き残してしています。
いろは加留多としては新旧2本あり、埋もれさせてはいけない貴重な資料と思われますので、同じ頭文字のカルタを新(カラー)、旧(白黒)の対比した形での掲載方式で連載していきます。
ロスキー・マダムは五人力
ろ 長い独ソ戦でソ連の銃後産業は、婦女子によって守られたという。
少女は可憐だったが成人後のマダムは、いずれも十両力士級で逞しかった。
金山の露天掘で鉄のトロッコが脱線すると、日本兵三名でもピクリともしないのを、軽々と処理して笑っていた。現場監督陣のマダムも囚人一家で、この街の住民はオール・いれずみ者とその家族だという。
ひとたび囚人として流刑されると、家族ともども労働力とされるのか。理解し難い国だ。
ろくに食わせず先ずラボート
「働かざる者は食うべからず」とは聞き知っていた。
しかし、その言葉が我々の生活とは直ぐに結びつかなかった。我々の立場が虜囚であることに気づくのが遅かったからである。
中立条件の一方的破棄による参戦勝利。あれよあれよという間の捕虜扱い。
食いたければ働け。との御託宣であった。
馬糧高梁もメシのうち
は かっては世界第二位の金含有量を誇った有名金山だそうだ。
入所直後私物、特に危険な刃物検査と称して、目ぼしいものは没収の憂き目にあり。
残されていればいささかの飢えは防げた。
この年この国は穀倉地帯ウクライナも大凶作とかで、住民も空腹をかかえていると聞かされた。
満州から運び込んだ膨大な食糧はどこに消えたのか。
「働くには余りにも少なく、死ぬには少し多い」というジョークがあるそうだ。私たちは飢えた。
恥も外聞もなく食い物に見え
空腹とは満腹の次の段階であろうが、空腹から空腹、
加うるにシベリアの酷寒、さらに重労働の生活となってしまった。
空腹はたちまち人間を餓鬼道に落としてしまう。
とはいえソ連自体も空腹に泣く国であった。
頼みの食糧は満州から根こそぎ運び込んだものであった。
それはいまわしい強盗行為にほかならない
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