伝染病をいかに予防し撲滅するか、そこにこの国の将来がかかっている―。ドイツの留学から帰国した北里柴三郎をこう励ましたのは、福沢諭吉でした。北里のコッホ研究所の留学中、アジア諸国では脚気(かっけ)が流行し多数の死者が出ていました。今では、脚気はビタミンB1の不足が原因とわかっていますが、まだビタミンの存在が知られていない当時は「脚気菌」という病原菌が原因と考えられていました。北里は「脚気の原因は病原菌ではない」と世界で初めて発見。ところが、これは恩師でもある東京帝大の緒方正規による「脚気病原菌説」に真っ向から反発するものでした。北里は正しい発見をしたのもかかわらず、「忘恩の輩」と日本国内で激しい批判にさらされ、帰国後に母校でもある東大と激しく対立。大きな力と人脈を持つ東大を恐れた日本の医学界により、世界的な細菌学者であった北里はまさに孤立してしまいました。そんな中、「これほどすぐれた学者を無為にしておくのは国家の恥」と、応援したのが福沢諭吉でした。福沢らの多大な財政援助により、明治25年10月に「私立伝染病研究所」が芝公園内に開所し、北里は初代所長に就任。翌年、この研究所が手狭となり移転しようとした際、妨害が入ります。「住宅地に伝染病の研究所は危険だ」と反対したのが、東大総長の渡辺洪基とその地域に住む近隣住民でした。それに対し、福沢諭吉は自分の次男を研究所の隣に転居までさせ、その安全性を住民に訴えました。明治27年、北里はペストの蔓延していた香港に、日本政府から調査に派遣されます。まだゴム手袋もない時代、素手で解剖にあたった東大の医師はペストに感染し生死の境をさまよいますが奇跡的に回復。北里は世界で初めてペスト菌を発見し、その論文は英国の学会誌ランセットにも掲載されました。福沢諭吉は明治34年に亡くなりますが、北里は生涯にわたり福沢の恩を忘れたことはありませんでした。慶応大学60周年事業では、福沢の夢であった医学部の設立に奮闘。四谷の軍用地を買い上げて医学部を作る案が発表されると、またしても地元で反対運動が起きます。「病院は地元のためにならない。」という今では考えられない理由で、当時の東京市長も反対。何とか京都帝大医学部と北里研究所から人材を集めて開学し、北里は大正6年に初代の医学科長に就任。終始報酬は受け取らず、慶応大学医学部の発展に尽力しました。また、当時の日本では多くの医師会が設立され反目し合う状況でしたが、大正6年に全国規模の医師会「大日本医師会」が設立され、北里柴三郎はその初代会長に就任。大正12年には医師法に基づく「日本医師会」となり、北里は会長としてその組織の運営にあたりました。北里が今生きていたら、このコロナ禍の日本でどんな活躍をしていたことでしょうか。【さいたま市防災アドバイザー・加倉井誠】
この記事へのコメントはありません。
この記事へのトラックバックはありません。
Δ
長永の岩槻B級スポット紹介⑥ 「『資正讃歌』ができるまで(2)」
第2回リノベーションスクール@岩槻 受講生募集中!
トップページに戻る
移動済み情報記事一覧へ
Copyright © WEB ら・みやび 岩槻 All rights reserved.
この記事へのコメントはありません。