日本人にはなじみ深い「七草がゆ」「ひな祭り」「観菊」などの由来は「節供」といわれる行事だ。これらは「五節供」と呼ばれ、現在のように広まったのは江戸時代からといわれる。その起源は奈良時代で中国から伝わったとされるが、日本の祭りとなじむことで、それぞれ独特な行事として世代を超えて伝えられてきた。本来は、季節の節目に神様へ「お供え物」をささげ、しきたりに沿い「室礼(しつらい)」を行い、親戚縁者が集まって無病息災や豊作、子孫繁栄などを願うものである。現在、この「五節供」をユネスコの無形文化遺産に登録するため活動している団体が「一般社団法人 日本の節供文化を継承する会」である。平成27年7月6日に設立され、東京都台東区に事務所をかまえる。そして今回、役員の一人である株式会社 東玉の戸塚隆社長より活動についての寄稿文をいただいた。
株式会社 東玉 戸塚隆社長より
みなさまは「五節供」をご存知でしょうか。伝統の続く「人形のまち・岩槻」があるのは、この五節供があるからといわれています。「五節供」のうち、3月の「桃の節供」や5月の「端午の節供」のおかげもあり、岩槻のひな人形や五月人形が生産され、全国に販売されることで人形という伝統産業が成り立っています。江戸時代には1年間で5回の節供があり、それぞれ大事な国家行事として祭日や祝日が設けられていたそうです。そもそも節供の「節」は季節の変わり目を表し、続く「供」は「供える」「食べる」という意味で、季節の食べ物を神様にお供えして、人びともこれにあやかり季節を楽しみながら時期により流行する病を払うというならわしがありました。別表にあるのが、まさしく「五節供」となります。そして現在、岩槻の伝統産業を担う「東玉・人形博物館」がこの日本の「五節供」をテーマに、啓発や広報に努めています。ちなみに、「せっく」という響きですと「節供」と「節句」が使われますが、じつは、元々は「節供」が使われていました。節供の日には多くの人びとが祝賀行事に出かけたため、途中で供え物の「節供料理」が不足することもあったそうです。そこで「句切り」という言葉のイメージから「節句」という当て字が生まれたという説もあります。岩槻では「五節供」とユネスコの世界無形文化遺産に登録しようという、壮大でロマン溢れる運動もスタートしています。日本の伝統文化である「五節供」を国内から海外へ、岩槻からより広く知れ渡ることにも期待したいです。
日本の五節供
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