武州鉄道顕彰会(飯山 実)武州鉄道は、設立当初は中央軽便電気鉄道株式会社と称し、明治23(1890)年に制定された「軌道条例」に基づき、川口町(現・川口市)を起点として春岡村(現見沼区)にいたる軌道として出願されました。しかし、明治43年(1910年)に公布された「軽便鉄道法」に基づき出願を変更し、明治43年11月5日に軽便鉄道として免許が下りています。翌年の7月28日に動力を電気から蒸気へ変更し、社名も中央鉄道株式会社に変更しています。城下町岩槻は、「東北線が通る計画だったというが……」と伝えられているように東北線は通過せず鉄道から取り残されてしまいました。岩槻町の上村正敏町長は、柏崎村・和土村・新和村・川通村・慈恩寺村・河合村・春岡村の人々とともに地域振興の為、明治29年白根専一逓信大臣に「東武鉄道線路之岩槻町之編入に付請願」を提出しましたが実現には至りませんでした。そのような中で、岩槻町の人々は、中央軽便電気鉄道の終着駅春岡から岩槻町への誘致に成功し、岩槻駅(岩槻中学校、太田小学校)用地や鉄道用地の買収等に協力しました。大正8年7月6日に大宮公園の八重垣で開催された株主総会において、社名を武州鉄道株式会社と改め、本社を岩槻駅地内に移転、資本金を85万円に増額することを決定しました。しかし、第1次世界大戦による不況などにより工事の遅延が続く中、大正13年に蓮田・岩槻間の開通、昭和三年岩槻・武州大門間の延伸、昭和11年に武州大門・神根間の延伸をしましたが、金融恐慌、昭和恐慌とつづく変動の中、昭和13(1938)年8月22日をもって会社の解散が認可され、武州鉄道の蒸気機関車や資材等は、小名浜臨界鉄道に譲渡されました。武州鉄道沿線の先人は、「地域の要望を負って営業を開始したが、地域の人に惜しまれながらも解散に至ったのである。」と語ってくれました。旧岩槻市では、武州鉄道以後地下鉄誘致のため南部地域の開発構想を策定していました。
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