先回、ハンディキャップについて書きました。社会的不利です。
今回は、社会が人を不幸にするかもしれないことについて、お伝えしたいと思います。
子どもが、親の期待に添うように自分の行動を合わせていく傾向を持っていることは、多くの人が実感としてご存じのことかと思います。でもそれは子供に限りませんよね?
大人になってさえ、周囲の色々な人の思惑や考えを気にして、トラブルにならないように、もしくはより善い関係でいられるように、自分の想いを抑えても合わせることはあるでしょう。
日本人は特にその傾向が強い民族かと思います。
この社会性が、ハンディキャップをもたらす要因の一つでもあると思うのです。
自分がどれだけしっかりしていても、社会から貼られるレッテルに抗うのは容易なことではありません。
働けないとダメ、勉強ができないとダメ、運動ができないとダメ・・・、色々なレッテルがあります。
お金持ちの人と、貧乏な人。二人のうちどちらかが窃盗犯だとしたら、多くの人が、貧乏な人の方が犯人だと思うのではないでしょうか?
そういうレッテル、意味づけ、思い込みは本人にも影響します。
褒めて伸ばすという教育方針がありますが、それは、善いことを期待されると、人はそのようにふるまいがち、という特徴を用いている方法だと思います。逆もまたしかりです。
障害があることをもって、本来はその人の尊厳が損なわれるものではないのです。
ですが、多くの人が、障害があることでその人は大変な不幸を背負い、人生が苦しくて社会に貢献できないに違いないと、漠然と思っている。その想いがハンディキャップの根源だと思うのです。
社会が、というのは、とどのつまりその構成員である人ひとりひとりが、障害があっても、不自由があっても、病があっても、人としての価値、輝きなどには、違いが無いという基本を胸にもっていれば、ハンディキャップの大半は無くなるはずです。
かわいそうな人、お世話をしてあげなければならない人、などというレッテルが無くなるだけでも、だいぶ社会は生きやすくなることと思います。
私が介護を受けるようになった時、岩槻がより住みやすい地域になっていますように。
【愛風・久毛】
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