ハンディキャップという言葉は説明が不要なほど、今や社会に浸透したでしょうか。
日本語ですと社会的不利と訳されます。昭和初期に診療をしていた呉秀三医師。
精神科医でしたが、彼は、当時の日本の精神科医療の現状を嘆いて、「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたる不幸の他に、この邦に生まれたる不幸を重ぬるものというべし」と嘆いたそうです。
障害は、本人の努力不足や落ち度があってなるものではありません。
それなのに、障害があることをもって当然払われるべき敬意や、与えられるべき権利が阻害されることが多々あります。
昭和初期は、現在よりもっとあからさまに、障害者が差別されていたのだと思います。
家族ですら家の恥と考えたり、いじめたり、無視したり、その人にも当たり前に心があり、傷ついたり、怒ったり、感謝したりという当たり前の心の営みがある、ということを尊重しない。
それは、無知による誤った価値観が影響していたと思います。
人は群れて生きる動物ですので、社会という集団に所属します。
障害をもつことで、社会という集団に入りにくくなってしまうこと、それがハンディキャップだと思います。
呉先生は、当時の日本社会の未熟さを嘆きました。
医学のレベルで、統合失調症の人や知的障害の人が、何もわからない廃人なのではなく、考えることも感じることもできるが、精神活動の一部に、苦手な部分があるということが分かってきていました。
でも、一般の人は、そのことを知らない。説明されても感覚として受け入れられない。
こんな場面、見たことありませんか?
車椅子に乗っている人が居る。
その車椅子を押している人が居る。車椅子の人が、通行人に質問をした。通行人は、車椅子を押している人に返答する。
質問をしたのは、車椅子の人なのに。
ハンディキャップは、集団を構成する一人一人が、正しい知識と価値観を持って、誰にも認められている基本的人権を尊重できれば、無くなる不利です。上の通行人さんには、悪気は無いと思います。
でも、車椅子に乗っているこの人が、自分の言葉を理解できると思えていないのだと思います。
だから、介助者に説明してしまう。でも、質問なさったんです。車椅子の人は。当然、返答も理解できます。
この邦に生まれたる不幸、などと言わしめないように、岩槻で生活できてよかったと思われるように、岩槻区民のみなさまの障害への理解が進むことを願ってやみません。
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