妙見社。
自分は城館跡の探索をしていますが、このワードを見ますと、この界隈ではほぼ共通認識的に言われている事が頭に浮かびます。
それは「妙見社は千葉氏からの信仰が篤く、関連地に多く見られる」ということです。
千葉氏とは、お隣の県・千葉県の名前の由来になった名族です。 その千葉氏の庶流で、千葉氏の重臣となっていった士族に原氏がおります。彼らも同様に妙見社を祀っていたとされます。
その原氏ですが、どうやらある一時期、三つの家が岩槻内に同時におられたようです。
隠れキリシタンとして名前が出る原胤信公(原主水)は、原氏の嫡流です。その岩槻内での活動拠点について、埼玉近代史研究会様の『埼玉近世史話』によりますと、
「潜伏していた槇谷耕雲寺は岩槻市須久毛耕雲寺」とあり、須久毛は和戸郵便局様付近です。
その原主水を手引きしたとされるのが、同じ原氏一族の粟飯原氏です。粟飯原氏は岩槻藩藩主の高力清長公・忠房公に仕え、加倉の浄国寺様付近に活動痕跡があるようです(岩槻ボランティアガイド会様よりご教示いただきました)。
そして最後、長永が初めて紹介しました角田商店様の御門の、元々の所在地であります釣上新田の『原氏館』には、武田二十四将の一人・原美濃守虎胤公の御子孫が居られました(岩槻地方史研究会様よりご教示いただきました)。
この原氏も元々は同じ千葉の原一族で、戦に敗れて落ち延びて武田氏に仕えたとされます。
これら、各々の本拠に置かないのはなぜか?(原氏館は隅落の所にあった可能性はあり) キリシタン活動している方々が置くか? などの疑問はありますが、三者の大体中間位置にあるのもまた不思議ですね。
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