大和田駅西側の通りを南へ約300メートル行くと大和田公園通りとの交差点がある。大和田公園通りを東に行けば、七里の大谷中通りにつながり岩槻に続く。西へ行けば大宮方面。この道は明治18年頃に作られた地図にあり、岩槻と大宮を結ぶ主要道路だったことが分かる。東武野田線と大和田公園通りは、ほぼ並行していて、その間に畑が広がり、旧家が点々とする昔ながらの風景が見られる。公園通りよりさらに古い道の痕跡が、旧名主宅の長屋門の前にあった。公園通りを西へ行き、第二産業道路を渡る。産業道路を70メートルほど北へ行くと派出所があり、その手前の細い道を左(西)に曲がる。この道が旧道だろうか。入ってすぐ右手に天王社があった。奥に庚申塔があり、「いわつき一里半」などの文字が見られた。隣は自治会館。ここから西は分かりにくい。大和田の台地の西端近くにたどり着く。周辺は住宅地。広い畑もある。この辺りは戦国時代の武将、伊達房実が築いた大和田陣屋の跡地だ。伊達は岩槻太田氏の家臣だった。現在、遺構はなく案内板もない。最後に標高18.6メートルの旧大宮市最高地点に立つ。国土地理院が設置した三角点がある。(私有地にあるため公開はしていない。)(第64回)
風信人の旅 大和田を歩く歴史の道と大宮最高地点 プラス
七夕と児玉南柯の船下り
文人小玉南柯が七夕の船下りを行なったのは文化3(1806)年。南柯の日記に書かれている。岩槻の七夕にふれた文献としては最も古いと考えられる。7月7日(旧暦)は暑さ厳しく、8日に行った。元荒川の今の新曲輪橋の辺りから水管橋の辺りまで、仲間とともに下った。夕方、明月に感動し引き返す際に詠んだ歌が「夕月の かげにささする みなれ棹 天の川こぐ 船かとぞ思ふ」である。夕月の光がゆらゆらと映える水に、みなれ棹(水になじんださお)をささせて船を進めさせる。まるで天の川をこぐ船かと思われた、の意。岩槻では南柯の「天の川こぐ船」をもとに和船を使った七夕の行事が行われている。(第40回)
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