大和田公園通りを西へ行き坂を下りると見沼田んぼの低地が広がる。芝川に架かる橋の名は「石橋」。現在はコンクリートの橋だが、江戸時代は石造りの橋だった。かつては橋の袂に石橋供養塔が二基あった。供養塔には橋を利用した多くの村の名が刻まれ、その中に岩槻や上尾の尊名が見られたという。広範囲の村の協力があったことが分かる。橋を渡ると南側には大和田公園の市民プールと市営大宮球場がある。球場の西側には見沼代用水西縁(べり)が流れる。用水に架かる橋を渡ってすぐ左に折れ、用水沿いの細い道を行く。少し歩くと右手の小高いところに広場が見える。ここは寿能公園といって、寿能城のあったところだ。戦国時代の岩槻城の出城で、潮田出羽守資忠が城主となった。三方が見沼に囲まれた台地の突端に築かれたので「洲の城」の異名があったという。県指定旧跡になっている。岩槻と大宮を結ぶ道は、軍事拠点を結ぶ重要な道であった。近世以降は生活の道になる。大宮の東部地区は岩槻の商業圏に入っていたので、当地の人は戦後しばらくまでは岩槻に買い物に出かけたということだ。(第65回)
風信人の旅 大宮区寿能町石橋と寿能城跡 プラス灯火船(ともしびぶね)
岩槻藩士で文人の児玉南柯の七夕の舟下りを記念して、7月8日の夕方、元荒川の新曲輪橋付近で「灯火船」が有志により行われた。川に浮かんだ灯火は、星のようにまたたいていた。当日は東の空に夕月が美しく、南柯の和歌の世界「天の川こぐ船」が現出した。(第41回)
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