戦国時代の岩槻には城主を中心に連歌を愛好する人々が集まり句会を催していました。江戸時代には人々の楽しみの一つに俳諧がありましたが、岩槻区内で俳諧に関する足跡を訪ねると寺社への奉納物や門人が建てた碑、俳句を親しんだ人が亡くなった時に辞世の句を刻んだ墓石や句集などがあります。江戸時代初期の俳諧愛好者は、岩槻城主阿部家家老三浦氏(号を木玉)を中心に志候、臨加、如仰、即心、喜一などが俳諧グループを形成し、幽山や桃青(松尾芭蕉)などから指導を受け、一雪編『洗濯物』・未琢編『伊勢踊』などに入集していました。中でも延宝八年(一六八〇)言水編『江戸弁慶』には木玉を含めて七人十四句が入集し、人々の注目を集めています。天和元年(一六八一)国替えにより岩槻を去っています。松尾芭蕉が没してから俳諧の世界は町場型俳諧と農村型俳諧に分化していくが、俳諧を嗜む人は増加し、趣味的傾向が強くなりました。松尾芭蕉系葛飾蕉門グループの真々田安五郎・雄助父子(尾ケ崎新田)、新井万右衛門(尾ケ崎新田)、会田源蔵(釣上新田)、大塚亀蔵(釣上)、葉山卯之助(末田)、金子三右衛門・吉右衛門父子(長宮)、田中伊三郎(長宮)、関根惣吉(長宮)らは春日部や越谷地域の人々と句会を催しています。市神社境内社庚申神社(本町一丁目)には、弘化三年(一八四六)老名、酒升、玉住、菊宇、柏三、一録、茂金、茂里、白龍、幸尸、松月、雪萬、面造、木石、鈴成、巳秀、一峰、鶴子、青峨、東角、老翁、井雙庵、松露庵の俳句扁額が奉納されています。また、 渋江町薬師堂(本町五丁目)には、安政三年(一八五六)重藤、玉之、三辰、森羅、雪林、鼠来、亀山、石破、八鳩、美石の俳句扁額、文久元年(一八六一)稲麾、武景、瑞白、白髪、勝秀、亀山、琴歌、一重、立章、琴聲、春山、貞山、馬六、秀奴、松風、玉本、雪林、三辰、起雪、青羅、春玉、五十渡、如満、按鶯、春直の俳句扁額が奉納されました。芳林寺(本町一丁目)には安政三年に奉納された手洗石の裏面に、古明(柳崎 新井宗五郎)、蝶管(中尾 会場喜右衛門)、鳩寿(鳩ヶ谷 加藤平五郎)、文女(瀬ケ崎 武笠太郎兵衛)、詩月(大間木 大熊真蔵)、一旭(大間木)、淡水(田島 深井善八)、鴻觜(鴻ノ巣 板谷吉兵衛)、琴顕(当所願主 紙屋善兵衛)の句が刻まれおり、当時の俳人の交流範囲や階層などをうかがい知る貴重なものです。岩槻宿では市宿町名主河野氏や久保宿町石川氏(醸造業)などが中心となり俳諧グループを形成していました。江戸の文化人は、日光参詣の途中岩槻の俳人の所に逗留し、慈恩寺観音などを散策し、その時の様子を書留め紀行文にまとめています。久保宿町石川家には林羅山が逗留し、石川家醸造のお酒に名前を命名したり紀行文を残しています。長宮の金子家に逗留した山﨑北華は『蝶之遊』を刊行しています。【文責・飯山実】
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