昔も今も農業に欠かせないのが肥料ですが、江戸時代中頃の元禄期以降は商品作物の生産が増大するとともに肥料の活用が普及しています。元文二年(一七三七)ころの上尾宿(現在の上尾市)付近の人々は、米糠は岩槻・原市・川越、灰は越谷・岩槻・行田で買い求めたといいます。市宿町の善兵衛は、農間余業で、米や野菜などの肥料(〆粕・干鰯・魚・油粕等)渡世を生業としていました。しかし売掛けの貸付金が滞ったので天保十年(一八三九)武蔵国内の三郡二カ宿一町十八か村の三十八人に対して訴訟を起こしています。この時の元金は、金百十両一朱、銀七十二匁四分五厘、銭五貫九百四十五文に及んでいました。市宿町の塩屋忠右衛門は、嘉永二年(一八四九)四月六日にほしか四表・こぬか十二表、閏四月三日に才田半俵、五月一日粕一俵、五月三日粕二俵、五月七日粕二俵、五月二十七日粕二俵、六月四日粕二俵を、真福寺村の高橋家に納品し、その代金は七両二朱七百五十文でした。このような肥料を扱っていた塩屋忠右衛門、肴屋長吉、綿屋惣右衛門、和泉屋平兵衛らは江戸で購入し、下船に乗せて岩槻(新曲輪河岸)に運んで、農家の人々に販売していました。灰は、質屋政吉が江戸で購入し、同じように下船に乗せて岩槻に運び、販売していました。このころの肥料は、〆粕、油粕、種粕、灰が主流でした。商品作物などの生産にともない農具も変化し、踏鍬は、畑を耕すのに用い、使い方は両手で柄を持ち鍬の頭を右足で踏みこみ、そして手で持って左へかえすようにして耕しました。また、大鎌は、広野、土手、堤の横払いなど石のないところの草を刈るときに用い、立ったままで、箒でゴミをはくように横に払いながら草を刈り、その後箒や松葉かきなどで書き寄せるというもので、現在でも使用されています。千歯扱きがなかったころは、扱橋といって二本の箸で稲の穂を少しずつはさんで扱いていましたが、扱箸よりも便利な千歯扱きはあっという間に全国に普及しました。以上のような農具や品種の改良、肥料の改善、用水路の改修などにより生産性が向上すると換金作物の藍・菜種・蓮根・牛蒡・長芋・葱などが江戸に出荷されました。しかし、江戸への搬入はすべて江戸の問屋を通して出荷されていたので、江戸の問屋の不当な取り扱いを受けることもありました。そのような中で岩槻土産として江戸時代初期から世に知られていた「岩槻木綿」は、寛政期(一七八九から一八〇一)には関東三大生産地のひとつになっていました。また、岩槻葱も「わけぎ」と称され、落語の話にもとりあげられています。【文責・飯山実)
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岩槻郷土資料館だより㊹「岩槻城のやきもの」
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