芳林寺は、岩槻城下市宿町(現在の本町一丁目)にあり、「大平山芳林寺」と称する曹洞宗の寺院で、ご本尊にを祀っています。江戸時代の寺域は、東は本町郵便局前の丁字路から駅に向かう小道、北側から西側は人形町通りからコュニテイセンターを巡る岩槻城の土居の内側、南側は本町郵便局前から芳林寺まえを通り土居に至る広大な地域です。お寺の由緒は、徳川幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』に「往古ハ地蔵寺ト号シ 比企郡松山ニアリシカ 太田大和守資高母芳林尼追福ノタメ 永禄十年(一五六七年)当所ニ移シ 堂塔ヲ修造シ 地蔵寺ヲ改メテ芳林寺ト号セリ 故ニ資高ヲ以テ開基トナセリト 境内ニ資高ノ墳墓タテリ 当寺開基昌安道也居士永禄十二年八月二十三日ト彫レリ」とあります。『武蔵国郡村誌』は「天文の頃岩槻城主太田三楽斎開基創建」、『南埼玉郡寺院明細帳』は、「太田左衛門太夫持資、文明十八年(一四八六年)七月廿六日鎌倉扇谷ニテ上杉定政朝臣ニ被討、遺体ヲ岩槻芳林寺地蔵堂傍ニ埋葬シ、香月院殿春苑道灌居士ト謚ナス、二代信濃守資家、三代美濃守資頼近地五拾石・大鐘ヲ寄附アリ、後ニ四世資持天文十五年(一五四六年)十月九日卒シ、弟美濃守後資正入道三楽斉ト称シ、子息源五郎北条家ノ聟トナリ里見家ニ加戦シ、永禄十一年八月廿三日上総之地ニ於イテ戦死ス、」とあります。以上の史料から寺名は、太田大和守資高の母芳林尼から芳林寺と名付けられた岩槻城主太田氏の菩提寺ということがわかります。境内墓地には太田道灌の墓石と伝えられている宝篋印塔(太田氏資供養塔)や近世の岩槻城主高力清長の子正長の供養塔などがあります。明治四年埼玉県設立時に県庁が、芳林寺に設置されたという。また、明治期の「足尾銅山被害民の押し出し」一件がありました。明治二十三年(一八九〇年)の洪水を契機として足尾鉱毒事件が社会問題として人々の注目を集めるようになりました。 明治三十年三月二日二千人に及ぶ人々が鉱毒反対を掲げ「押出し」と呼ばれる請願を政府に対して行いました。同年三月二十四日足尾銅山の営業停止を求めて二回目の押出しが実施されました。この時の先発隊二千人(農民)は、日光街道、岩槻街道、中山道に別れ東京へすすみました。この時の取り締まりは、板橋警察署、岩槻警察署、浦和警察署、加須警察署、鴻巣警察署、桶川警察署と憲兵隊が当たりましたがその中心は岩槻警察署でした。先発隊と警察・憲兵隊は、岩槻で衝突し負傷者を出していました。この時警察の説得により農民たちは芳林寺に一泊し、岩槻の人々から炊出しや治療などを受けました。翌日、再び衝突しかけましたが、警察側と岩槻の人々は農民の慰諭を試みました。その結果、代表者が東京に至り、農民たちは帰村しました。その後、明治三十一年九月、明治三十三年二月十三日、明治三十五年二月、明治三十六年一月、同年五月に「押出し」が実行されましたが、そのつど警察と農民は衝突を繰り返しました。(文責 飯山実)
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