知楽院は、江戸時代の冨士見町、現在の地名は城町二丁目にあります。岩付台地の中央部舌状地に位置し、三方が湿地に囲まれた天然の要地に創設された臨済宗円覚寺派に属する寺院です。江戸時代初期、市域には清河寺(北区)、平林寺(現在は新座市)、法華寺(岩槻区)、蔵心寺(岩槻区)、知楽院(岩槻区)、香林寺(岩槻区)の臨済宗寺院がありましたが、五カ寺が岩槻地区にあります。知楽院は、山号を城合山といい、本尊に釈迦如来をお祀りしています。開基は、岩槻城主太田資頼です。資頼の流れは、太田道灌―資忠―資家―資頼―資正と続き、岩槻に居住していたので、岩槻太田氏と称されている太田家です。太田資頼は、幼少期には彦六と称し、十九歳で落髪し道可と号しました。この剃髪は祖父太田道灌が暗殺された時と伝えられています。大永四年(一五二四) 二月小田原北条氏に攻められた太田資頼は、落城し、その後城主に返り咲きました。翌大永五年小田原北条氏綱に内通した資頼の家臣渋江三郎と北条氏綱連合軍に攻められ、資頼が守る岩槻城は二月六日に落城しました。城主資頼は、岩槻の支城の一つ石戸城(現北本市)に退きました。この時の戦で城兵三千余人が討ち死にしたといわれています。この後の合戦の一つが大宮吉野原合戦で、この時に戦死した将兵を葬ったと伝える行人塚が近年までありました。享禄四年(一五三一)勢力を盛り返した資頼は、岩槻城を攻め、城主に返り咲きました。天文二年(一五七四) 資頼は、家督を子供の資時に譲り、洞雲寺に隠居したと言われています。太田資頼は、天文五年四月廿日に没し、法号は寿仙院殿知楽道可庵主といいます。寺名の知楽院は、太田資頼の法号から名付けられました。岩槻太田氏の基礎を築いた資頼の姿が描かれた画像が養竹院に保存されています。太田資頼の葬儀は、遺言により川島町養竹院で行われました。開山は、奇文和尚(円覚寺第百五十三世、一四九三年生まれ、)です。奇文和尚は、岩槻太田氏の菩提所川島町養竹院を開基した叔悦和尚(円覚寺第百五十世)の弟子で、当時養竹院の住職を務めていました。元亀二年(一五七一)二月十四日に没しました。奇文禅才和尚の弟子で川口市長徳寺の住職龍派禅珠寒松和尚が作成した『寒松稿』に知楽院奇文禅才和尚のことが記されています。大岡家家臣で遷喬館を創設した児玉宗吾は、幼少のころ知楽院の住僧に教えを乞うており、宗吾の基礎が形成されました。知楽院の創立年次は、諸説あり確定していません。【文責・飯山実】
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岩槻郷土資料館だより【52】 「いわつき郷土かるた」
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