前号の片野城におもむく前、吉田知絵美さん達をまず先にご案内したのが、筑波山近くにある小田城です。資正公の茨城での活躍において絶対にはずせないのが、当地における資正公の敵であった『小田氏治公』についてです。小田氏治という人物をインターネットなどで調べると「戦国最弱」などと面白おかしい内容が出てきます。しかし、それでは資正公はそんな弱い相手と戦って楽勝だったのでしょうか?自分はかつて資正公の後半生を知りたくて、この地に何度も訪れました。そして役場の方に「この方が当地を一番研究されている」と紹介された宝篋山小田休憩所の東郷様と対談し、数冊しかない大事な研究本を託され、ひじょうにくわしい説明をお聞きしました。では、資正公が戦った小田氏は実際にはどんな勢力だったのでしょうか?まず、経済基盤はひじょうに盤石だったようです。かつて霞ヶ浦は『香取の海』と呼ばれた広大な内海で、小田氏はその沿岸に何十もの津を設置、周囲水系の水運利権も持っていました。香取の海からの海の幸、小田城の北は筑波山などの山からの山の幸。南は平野で米がよく穫れ、豊かだったそうです。そして、重要なのが背後の宝篋山です。現地の案内板(写真)を見ていただくと分かりますが、ここには小田氏と共に繁栄してきた巨大な寺院が存在していました。戦では兵を出した可能性が高く、また、敗戦時は小田兵を匿い、殺生を禁ずる結界石を盾に敵を寺域に入れなかったとされます。なお、この案内板設置以降も現地調査は進み、新たに草刈した山域からは寺院跡がどんどん発見されており、規模はもっと広大とのことです。【本格格闘甲冑集団―式―・長永】
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