前号では、太田資正公が茨城で戦った小田氏治公の勢力について書きました。資正讃歌を作詞される吉田知絵美さんを案内する上で、これらは絶対はずせないと思ったからです。氏治公に対する資正公は、武蔵国からやってきて、佐竹氏の客将として収まったばかりの存在です。兵力的にも、氏治公が数千ほどで、資正公は独力ではわずか数百ほどという数字が見られます。佐竹氏からは多少まとまった援軍と、ほとんど独断で戦う江戸氏のみがあてられています。どこも楽勝な雰囲気は無く、厳しい戦いしか思い浮かびません。できうる策全部をもってして、油断なく全力でかからなければ決してかなわない、というものだったと考えられます。そこで、資正公はまず息子の政景公に、近隣勢力の真壁氏の娘を嫁がせて婚姻同盟を結びます。そして、それらの城間と片野城周囲において支城網を形成したようです。現地の城館を探索しに行くと分かりますが、片野城の周辺には資正公の家臣が入ったとされる城があり、それ以外にも詳細が不明なままの城、館、防御陣地などが多数存在します。片野城も大改修が行われます。この城は平山城ですが、まるで本格的な山城の様な印象を受けるほどに強化されます。側面が段郭や帯郭といった段々によって厳重に守られており、複数の馬出しという城郭技術も用いています。これだけの強力な造りからは「たとえこの城だけになっても、十分に戦ってみせる!」という資正公の意志を感じずにはいられません。以上が、資正讃歌ができるまでのお話になります。長きにわたり、ご覧いただきましてありがとうございました。【本格格闘甲冑集団ー式―・長永】
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