岩槻に永年お住まいの方でも、田中保(1886〜1941)の名前をご存じない方はたくさんいらっしゃることと存じます。田中保は、大岡忠貫に仕えた岩槻藩士田中収の四男として、鈴木酒造(万両)前の天神小路の一角で生れた。18歳で単身アメリカに渡り、10年程でシアトルで画家として の地位を確立し、その後パリに渡り活躍し、日本に一度も帰ることなくパリで客死する。シアトルでは農家の手伝いやコック見習いをして生計を立てる傍ら、絵を描くようになる。1912年頃オランダ人画家タダマに師事し、本格的に絵を学ぶようになる。やがて海を題材にした「海景画」が好評を博し、絵を教えながら個展を開くまでになる。題材として次第に裸婦画を多く描くようになり、1917年シアトル美術協会で開いた個展に出品した裸婦画が風紀上好ましくないとの声が上がり、協会から撤去勧告を受ける。これに対し保は理路整然とした英語で「表現の自由と芸術創造の正当性」を二度の抗議文で主張した。反響は大きく展示会は大いに賑わった。この年、シアトル在住の判事の娘で、女流詩人&美術評論家のルイーズ・ゲブハード・カンと結婚する。埼玉県立近代美術館では、1988年に「1920〜30年代 ラプソティ・イン・パリ 田中保をめぐる画家たち」と題した展覧会が開催された。その後、当時の担当学芸員をシアトル〜パリに3ケ月間派遣し、田中保の生涯を調査した。新しい発見が多数あり行動の詳細も明らかになったが、保と直接会った人を捜し出すのには渡航が約10年ほど遅かったとの話も残る。田中保は依然として謎の多い画家なのだろうか。今回の展覧会に当たり、担当学芸員はこれまで美術館が蓄積してきた資料を入念に見直すことから始めたそうだ。コロナ禍で移動が制限される時代だったが、昨今では世界各地の歴史的資料のデジタルアーカイブ化が進み、日本にいながら、当時の新聞記事や 一部の海外資料を閲覧することが可能になり、今回ルイーズの人物像も明らかになった。埼玉県立近代美術館ニュース[ソカロ]2022年6月_7月号を引用させてもらうと、「ルイーズは文学の道を志していましたが、最初の結婚相手は彼女の夢に理解がなく、離婚に至っています。その後美術評論家として活躍していたルイーズの知性に、田中は強く惹かれました。そしてルイーズにとっても、田中は前衛的な芸術動向への関心を共有できる運命の相手と映ったのです。<中略>当時のアメリカ社会において、異人種との結婚はスキャンダルといえるものでした。ルイーズは裁判官の前で二人の愛の正当性を陳述し、ようやく結婚の許可を得ましたが、当時の法律に基づいてアメリカ国籍を失いました。困難を乗り越えて結婚し、画家の良き伴侶として振る舞いながら、旧姓で執筆活動を続けたルイーズの姿は、女性の多様な生き方が問われる現在においても示唆に富むものといえるでしょう」と担当の女性学芸員はルイーズについて結んでいる。今回の開催は「さいたま市が生んだ『田中保』の作品をまとめて観たい」という声に応えたもので、ひとりでも多くの地元の方に北浦和まで足を運んで頂きたいと思っています!なお企画展開催期間中の9月頃に担当学芸員を岩槻に招き、講演会を開催する予定です。【寄稿者: 島田祥博】
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