戦争の記憶 が残る貴重な 「いろは 歌留多」③

 藤川公成氏がシベリア抑留の様子を『いろは加留多』として、昭和55年1月に記した、新旧2本を同じ頭文字のカルタを新(カラー)、旧(白黒)の対比した形で連載しています。紙面掲載への経緯は弊紙654と655号で既に掲載されていますので割愛します。


憎っくき敵はシラミの大群
 我々は夏袴のまま入ソした。
お土産用にと満州から担いできた被服類は取り上げられ、人のいい運び屋は寒空に泣いた。
この国は人体以外はすべて国の財産となるしかけらしく、襌までスターリンからの御下睗品となる。
寝ても覚めても着の身着のまま、虱の巣にならない方がおかしい。
大陸的というかこの国の虱は巨大な吸血虫であった。
発疹チフスの敵でもあり憎かった。こいつをひねり潰すのが唯一のうさ晴らしとなった。


人非人戦友を売りくらう
 餓鬼道はやむを得ぬ道であったが、そのため人非人と相成っては許せぬ行為である。
その者らは戦友を売り、パンにしタバコにしたのである。
このソ連への通報密告者が出るに及んで、所内に暗雲がただよっていった。
友の会運動以前のことである。
中沢隊長の拉致事件も無関係とはいえなかった。


欲しい物はミニャーチで
 囚人の家族の町は、鉱山町らしい活気はなく貧しい農家群にみえる。
構えている一家が余りにも粗末だからだ。
囚人の低賃金でまかなう労働力、シベリアには常時三千万人の囚人がいるという。
共産主義の政策なのであろうか。
とまれ日常物資の不足は目をおおうものがあった。
寒空にハダシの子供達もいた。
飢える我々はこの貧しき人々との物々交換で助かった。
最後には両者の悪知恵売買合戦となったが、微笑ましい想い出である。


本と言えばソ連共産党史
 入ソ間もなく「文化部」が作れた我々は幸運な方であった。
後に思えばバレイは恵まれた方であったといえる。
あの悲惨な生活がよい方だということは、いかに国際法を無視した暴挙であったかの証左である。
文化部として何か日本の図書が欲しいと要求した。
届いたのは「ソ連共産党史」だけ。


ヘドが出そうなヒジキめし
 「働く者は食える」その言葉を信じて我々は次第に命を削った。
しかし与えられたものは、馬糧高粱や大豆等だった。
大豆といっても大豆メシではなく、スープにただよう粒でしかない。
慣れぬ黒パンは酢っぱく胸がやけた。
重量ごまかしで水分が多く昼食時には凍っていた。
「今日は飯盒一本の配給」と大朗報!
当番大騒ぎ、飯盒からこぼれそうな黒いもの、塩水で煮てふやけたヒジキ。
これが三日間続いて下痢患者続出となった。


へんな国だよ太陽がない
 金山労働のため五時起床、七時出発である。
電気のない生活は闇の中。
太陽があるとすれば九時半頃の日の出。
日の入りは三時半頃とあって、坑内労働組は「太陽のない国」と思ったと語る。
露天掘でも働いた私は、今静かに考えてみても、冬期に太陽に浴したという記憶がよみがえらない。

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