武州鉄道は、鉄道事業のほかに①川口・品川間の曳舟事業、②沿線地域の電灯電力供給事業、③土地建物の売買及び賃貸貸などの事業を計画していました。特に渋沢栄一らが開発した田園調布にならって、武州鉄道沿線に一大住宅地の開発が計画されていました。また、明治四十四年頃の岩槻町・川通村・柏崎村・和土村・新和村・慈恩寺村や野田村など沿線地域の人々が株主に対する割合は約五十五パーセント、株式に対する割合は約三十四パーセントを占め、人々の熱意が感じられます。大正二年第一期線として川口町・岩槻町間の工事に着手しましたが、大正三年第一次世界大戦の勃発による経済界の不況、その後の大戦景気は川口町付近の地価暴騰の事態となり、建設工事は一旦中断となりました。そこで、用地費や乗降客・貨物の集散等を検討し、起点を川口町から蕨町に変更し、二期線に予定していた岩槻・蓮田間六・四キロを第一期線に繰り入れ早期開業をめざしました、しかし、資金調達は思うに任せず工事はとん挫する状況にありました。このような状況からの脱却をはかるには鉄道の営業開始をするしかないとの考えに至り、大正十三年十月十九日蓮田・岩槻間の開通式を岩槻駅(現在の岩槻中学校・太田小学校)で盛大に行い、営業運転を開始しました。武州鉄道顕彰会は、先人の偉業を人々に知っていただき、合わせて武州鉄道関係の史料の調査、また当時の人々が残してくれた記念碑の保存・保護などを目的に活動を始めました。皆様の参加・ご協力をお願いいたします。
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