現在の時の鐘付近にあった武家屋敷と町人町を分ける渋江口木戸から東武鉄道野田線下の排水路までが江戸時代の渋江町と言われていますが、江戸時代中期頃までは渋江口木戸から田中橋(出口町)までが渋江町と称していたようです。地名の由来は、台地からの絞り水が低地にたまり柿渋のような赤い鉄分の沈殿物がみられるところからシブエと言うようになったという。地名の古さは、平安時代末期に野与党の経遠がこの地に住み着いて地名を苗字にして渋江経遠と名乗りました。また、平林寺の嘉慶元年(一三八七)の古鐘に「渋江郷」とあり、古くからの地名であることがわかります。渋江町は、岩槻城の西側に位置し、南は武家屋敷、西は久保宿町、北は田中町、東は岩槻城の沼沢地に接しています。町の真ん中を日光御成道が通り、その両側に民家がひらけています。宝永六年(一七〇九)の人口は、男二百十二人、女二百八人の計四百廿人。延享三年(一七四六)の町の様子は、町の長さ(御成道)四町九間、家数七十軒、人口三百十九人、名主一人、組頭三人。お寺は、東光寺、浄安寺、観音院(寺)、成就院、龍門寺が報告されています。浄安寺は、建暦元年(一二一一)に野与党の渋江氏、柏崎氏、金重氏、箕勾氏、野島氏、白岡氏など一門が創建した渋江寺と伝えられています。永正二年(一五〇五)現在の浄土宗となり今日に至っています。慶長五年(一六〇〇)徳川家康は、上杉景勝征伐のときにここを本陣として一宿しました。その縁で御朱印六十二石(岩槻区箕輪)を賜りました。江戸時代初期阿部家の与力が居住していた与力町(現在の岩槻小学校の一部)は、渋江町の範疇(はんちゅう)に入っています。白木綿関係の商家は、綿売宿二軒、白木綿宿五軒がありました。町内には岩槻城主松平忠周が前任の丹波亀山城主から岩槻城主になったときに連れてきた狐が死んだので、稲荷として祀った亀山稲荷社があります。宝永三年(一七〇六)十月二十一日昼渋江町から出火し、渋江町、渋江小路、広小路、天神小路、諏訪小路の三十四軒が焼失しています。文化文政期(一八〇四から一八三〇年)には、武士が撞いていた時の鐘の撞き役を、渋江町の町名主が時の鐘の撞き役をしています。明治七年十二月に岩槻九町が合併したので岩槻町字渋江となりました。【文責=飯山実】
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